本願という言葉を得て、半月あまり思考実験を繰り返している。
人類の覚醒を願う。それだけで生活が成り立っていくのかということだが、まわりからちょっと変な顔をされることはあるものの、全く普通の生活ができる。普通に仕事をこなし、普通に家庭生活を送ることもできる。問題はない。
思考の中心に自我がない。
この「本願」による思考に切り替えるだけで、至福は長く私に留まるようになった。不安もない。
それでも時々不安の芽が顔を出す。
しかしその不安に取り合う自我がないと不安は育たないと分かった。
そして思考には二通りの方法があるということがはっきりわかった。
自我による思考と本願による思考は、人間の思考の裏と表の関係なのだ。
「神の思考」
何度か頭にちらついていた言葉だが、今はっきりと理解できた。つまり本願による思考を神の思考と言えるということだ。
神の思考によって描くのが、のしてんてん絵画「浄土」だと言うことができる。思考のもつれが取れた気がする。
本願 = 神の思考
このことをできるだけ丁寧に説明したい。
頭脳には自我の思考と神の思考という二つの回路が組み込まれているということが、あなたにもきっと分かると思う。
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