幻冬舎 発行
図書館で借りた本ですが、とても興味深い言葉を見つけましたので紹介します。
囲碁に対する態度、勝負への覚悟を綴ったこの本の冒頭の言葉が私の心に深く突き刺さりました。
なぜ言葉が突き刺さったのかと言えば、私の半世紀をかけた絵画創作という道行きの最後に、どうしても必要だった誰かの後押しが感じられたからです。
平たく言えば絵を通して自分の心を悟りの境地に遊ばせたいという私の願いに対して、その扉を開けてくれる鍵をそこに見る思いがしたから。と言うことなのですね。
この本の中で、井山九段は、自らの勝負師としての一つの覚悟を語ります。(赤字は以下「勝ちきる頭脳」からの引用です。もちろん黒字は私の想いです。)
その覚悟と言うのが「自分に対しての決め事」ということで、紹介されているのです。その決め事とは次の一文です。
「あとで後悔するような手だけは打たない。常に自分が納得できる手だけを打つ。」
これだけではあたりまえの事のように思えますが、その覚悟に至った勝負師の意識には目を見張る自己洞察と決死の意志があったのです。では納得とはどんな心持なのか、井山九段は続けます。
「では納得できる手というのは具体的にどういう手を指すのか?説明が非常に難しく、適切な言葉が見つからないのですが、あえてひと言で表現するなら「今」と言う単語に集約できるでしょうか。」
この「今」とは、私の考えではナウイズムそのものです。
つまり、納得するという心は過去にも未来にもない。まさに「今、この瞬間」にある己の思いや閃き、あるいはこの瞬間に見えた勝利への道筋に100%の信頼を置くということだと言えるでしょう。
今この瞬間こそが最善であり、それ以外に真実はないというナウイズムの考え方ですね。
さらに説明は詳細になっていきます。
「一手一手目の前にある局面で最善を尽くす」
大事なのは、まさにこの、今なのですね。勝敗に大して影響を与えないと思えるような場つなぎの一手であっても、けっして手を抜かずボーっとした石は打たない。一手一手に込められた最善手を打ち続けると言う表明です。(プロに場つなぎはない・・そこツッコまないでね^)^
最善と思って打つということは
「自分はこれがベストと思うのだから、この後どんな結果になろうとも、それを受け入れる」と言う覚悟を持つ ことだと井山九段は言います。
そしてここが最も厳しい、覚悟の表明と言えましょう。そしてその厳しさなくしては己の最善を保つことは出来ないのですね。
私が真実の絵と思い定めて描き続けている鉛筆画の世界にも100%重なる部分なのですが、私などは井山九段より半世紀近い前から生きてようやく見えてきた境地だと考えれば、一抹の恥ずかしさを覚えないわけにはいきません。
同時に真剣勝負の世界は20代の若者をして悟りの境地に至らせる厳しさがあるのだと思ったりもするのです。
今この瞬間、自分の思えるベストの手を打つ。そう決心すると、たとえ
一局の碁に敗れたとしても、「この一局に全力を尽くしたのだから後悔はない。」・・そして負けてもそう思えるだけの勉強と準備を怠らないこと。
井山九段のこの覚悟は壮絶です。そして私達凡人にしても、ナウイズムを生きるためにはけっして後悔しないという覚悟が必要だと教えられている訳です。自分の「今」の積み重ねである以上どんな失敗も受け入れる。これ以上の覚悟はないと私は思います。そしてこのことがナウイズムの真髄と言えるのですね。
失敗から顔をそむけず決して逃げないということ。この今に太い杭を打ち込み動かない決心を持ち続ける。そのためには徹底した勉強と研鑚が必要というのです。
・・・・・・・
しかしなぜ失敗を受け入れなければならないのか。
後悔すれば、マイナス思考が生まれ、この今を苦悩に変えてしまいます。とうていこの今を最善に生きることが出来ないのです。
つまり、失敗は失敗で取り返しはつかないのですが、しかしそれを次の成功に導く道筋と考えれば、全体として完全に自分を生き切ることになるということですね。
後悔とは過去を向いて、己の判断の甘さを悔いること。あの時こうしていればと思うと居ても立っても居られない悔しさと後悔。その後悔の間、私は苦悩にまみれて心を痛めているのですね。そのために、私の「今」は悲しい抜け殻となっている訳です。つまり心が過去にとらわれたままでは、完全に自分を生き切れないということですね。
後悔するのではなく、その失敗を受け入れ、参考にして今この瞬間の最善手を考える。
つまり失敗はマイナスではなく、次の成功のためのステップだというのですね。この失敗は後悔すれば心を過去に置き去りにしたままマイナス思考となるけれど、失敗を受け入れて自分と共にあれば、その失敗は「今」に引き継がれる。それは次の最善手をつかむためにどうしても必要な失敗だったと分かるのです。たとえ失敗した手であっても、「今」にそれを受け入れるなら、その失敗が最善手を生む。つまり結果としてその失敗は最善手だったと言える訳ですね。
そこで井山九段は最善手とは何かを具体的に表明します。
その最善手と言うのは、結局自分の打ちたいと思う手ということ。
徹底的に自分の感性を信じるということなのでしょう。
しかしこの自分の打ちたいと思う手を打ち続けることはけっして容易なことではないのです。そのことをこう説明しています。
自分の打ちたい手が、一般に悪手と思われていたり、他に良いとされる定石があった場合、それを押して自分の打ちたいと思う手を打つのは難しい
必ず自分の中に迷いが生まれてくるというのです。自分の思いが定石(一般常識)に反している場合に、それを押してまで自分の打ちたい手を貫く強い意志が常にあるわけではないでしょう。時にはその先で破滅する手かもしれないという疑いも生まれてくるでしょうし、失敗した風景を想像して身がすくむこともあるでしょう。
それは後悔とは逆に、心が未来に向かって動く疑いと迷い。あるいは不安であり、恐れなのですね。
これはまさに私たちが日々体験するマイナス思考と同じですね。勝負師の世界ではより顕著に表れるけれど、それは「今」に生きようとする私たちの願いを阻む妄想(未来思考の不安や過去思考の後悔など)と全く同じ心の葛藤であるように思えるのです。
そんな時井山九段は、
あえて自分のなかで起こってくる感覚を信じて打ちたい手を打つ。
と言うのです。
結果それが失敗に見えても、けっして後悔しない。それはその時の最善手だったという思いを貫く覚悟が大事なのですね。
信じる道を選んで失敗し、逆転負けを喫しても、それは自分の実力不足。読みであったり判断であったりがまずかったことの証明ですから、その部分の力をさらにつければいいだけの話しです。打ちたいと思う手を選択し続けているうちに、いつしかそうした覚悟が持てるようになっていました。
それが井山を7冠に導いたという訳ですね。
失敗を恐れ安全策をとっていては自分の大きさを表現できない。
これでは絵にならない!
そう思って不安に駆られても、今引きたい線を引く。
そこに没我の世界があるというのですね。
なんとなく分かるようになってきたかな~。
しかしこうも言っています。
私は安全策に進むことをダメだと言っているのではありません と
実生活において安全策を取るのは賢明な生き方ですから、これはあくまで自分の心の問題として受け取りたいですね。
棋士と言うのが私にはよく分からないことを物語っているのですが、
sure_kusa様は将棋がお好きなのでしょうか。
②の何をやっても勝ちたいは、最後絶対に負けない方法に行き着きます。
是非採用してください。間違いないですから。
え?どうするって?
引き分けに持ち込むには、目が回るふりをして盤上に倒れ込むんです。
その時駒が顔にあたらないように手で払うことをお忘れな^く^
私が勝ちの極意を尋ねられたら、
① 最高の棋譜を残すことのみを思う
② 盤外作戦をつかっても勝ちに導く
の二択なら①に憧れながらも②と答えることでしょう( ダメじゃん )
ちなみに尊敬する加藤一二三さんは①オンリー。
勝負師の葛藤・・凄まじいものが在るようですが、素敵だなぁ憧れるなぁ ♪
桂蓮さんの考えの中に、私は本当に強い自力本願の達成意欲を感じております。
そして私はそのお考えに敬意を覚えますし、ほぼ100%自分と重なる意識を感じます。
つまり桂蓮さんの今回の疑問が自分なりによく分かると思っているのです。
桂蓮さんがおっしゃいますように、私も宗教の教義に盲目的に従うことが出来ません。基本的に自力本願であり、己の力で到達したものでなければ100%の達成ではないと思っております。それは今も変わりません。
桂蓮さんの眼に、「他力などもう要らない境地に達している」と映るのはありがたいことなのですけれど、実はそうではないのですね。
自力の「自」を極限まで問えば、「自」に達したその地点で見える風景があると言えばイメージして頂けるでしょうか。
そこから「自」とは何かという本当の姿が見えてくるのです。
すると今まで「他」と思ってきたもろもろの教えや、それこそ宿敵と思えていた者でさえ、実は「自」であったと了解できるようになります。
さらに進むと、完全に「自」と「他」の存在しない「空」こそが己だったと知る場所に来ます。
すると今度は、長年付き合ってきた「自」が、己を捨てて「空」に入り込んでいくことにしり込みをするようになる。捨てるというイメージと、「自」が崩壊するという妄想が生まれてくるわけですね。
そうなったら「自」が「空」に進むことが出来ません。
私が最後の背中を押す「誰か」が必要と思ったその誰かとは、「空」に他ならないのです。
達成に向かってたたらを踏む「自」に対して「空」が背中を押す。
あるいは「空」に身をまかせる必要があるということですね。
瞑想で体験されている、あの「空」こそ、私の背を押してくれる誰かなのです。
{「自」がある}という最後の妄想を取り払う。それが私の描こうとしている龍なのです^ね^
へらへら笑い、優柔不断に転がっていても、金剛力士より強い「無」と同化したい訳ですね。
誰かの後押し...
皮肉にも
私が肉眼でノシテンテン様の絵を見た時、
この世で
ノシテンテン様の背中を押せる者はいないと感じてました。
なぜなら
前進するために
外側から押してくれる他力に依存しているようには見えなかったからです。
誰にも依存していない独自の原動力があり、
その原動力の原点は
まだ明確に掴める状態ではないような感じはしましたが、
その原点は太陽のコアのように
マグマのように
生きていました。
独自の原動力で進んでいるのに
ではなぜ
最後に後押しが必要だと感じていたのか、
その原因をずっと考えてみました。
進みが目に確認できない速度でないからか
停止しているように見える周りの状況が進んでも変わらないからか
あるいは、
進んできた道を見ていないから周りが変わっていないように感じたからか
あるいは、見ようとするものが変わらないからか
視点が単に平面的だからか
立体的な見方ができないからか
上記は私の推測に過ぎませんが、
私にはノシテンテン様が
常に自力で動いている者に見えます。
他力などもう要らない境地に達していると思っていたので
今回の記事は
『自分の信念を最後に疑ってみる作業』なのかなと思えたりしますね。