
(焼き板・・・浜風対策か、牛窓の民家でよく目にした黒壁)
富士を美しいと思う。その体験は、無条件に起こるものだと前回書きましたね。
先日、知人から、えも言えぬ美しい夕陽を見たとFAXを頂きました。人生のおわりに見る夕陽(夕暮れ)はこんな風かと思ったそうです。 夕陽(せきよう) 限りなく好(よ)し という李商隠の詩も添えられていました。
おそらく美に対する感覚は、万人に共通のものですし、当然言葉はいりません。万国共通ですね。それは私たちの思考を超えるものなのです。
詩人は、美を表現しようとして、より良い言葉を探し構成するために一生を捧げます。これだけをとってみても、美が私たち人間を超えたものであることはわかりますね。それは真実そのものの姿だと私は思うのです。
この美しいと感じる心は、真実と直接つながったときに起こる感覚のようなものなのかもしれません。それは、五感と同じようなもので、私たちの全身全霊で感じ、共鳴するものなのではないかと思われます。
私がこのことを重ねて言うのは、美は思考ではないということを強調したいからです。
美は人間が思考によってつくりだすものでは決してないのです。
しかし、ややこしいのはここからです。
私たちは富士を「美しい」と感じます。この時、間違ってならないのは、「富士が美しい」のではないということです。富士は「存在」であり、「自然」であるだけです。私たちの言葉でいえば、それは公空間であり、実在があるだけで、いかなる形容詞も存在しません。つまり富士は宇宙そのもの、あるいは神と呼んで差支えないものなのです。
大事なことは、「美しい」のは、富士の存在を受容した私たちの心だということです。富士を受容することで、私たちの心は「美しい」エネルギーで満たされます。美しいと感じた瞬間、私たちは宇宙そのものを体験しているということなのです。
めぐり会って、富士や夕陽を受容します。
すると私たちは思考を止めたまま、全身全霊で美を体験します。私たちは私空間から跳びだして公空間に自分を溶け込ませるのです。公空間のエネルギーの波と波長をあわせた心が、その振動を美しいと感じるわけです。
この宇宙の波動を直接体験するとき、私たちはその体験する波動そのものを美しいと感じているのだと思います。あるいはその時、私たちは富士を通り抜けて、まさに宇宙と一体になっている体験だとも言えます。つまり宇宙と一体となることが美だと考えられるのです。
私空間にしか身を置くことのできない私たちが、希にこのような形で、公空間を体験することが出来る。これは受容の持っているもっともすぐれた能力だといえるでしょう。
受容する(受け入れて理解する)能力は、向上させることが出来ます。富士を受容出来るのなら、その延長で宇宙そのものを受容することも出来るでしょう。そうして、「美しい」という感じのように、ことばを必要としない一体感を体験することが出来るなら、私たちはその時宇宙と溶け合い、1なるものの中で宇宙そのものとなっているのだと私は思います。
ところでそうなったら、5次元宇宙の概念は大きな働きをします。
私たちは五次元宇宙を受容することで、唯一無二の存在である空間を自身の心の中で体験することが出来るでしょう。それは禅に通じるでしょうし、「気」を理解する手掛かりにもなるでしょう。
いずれにしても、私たち人間は、自ら作る私空間の中に閉じ込められた存在であることには変わりありません。しかしそんな私たちにとって、受容は公空間に向かって開かれる扉だということなのです。
私たちはようやく、この旅の出発点を再び視野に入れることができるところまでやってきました。
5次元宇宙は私たち人間をどこまで案内してくれるのでしょうか。
4次元では見えなかったもの、それは何なのでしょうか。
(初めて読まれる方へ: この物語は、愚書のしてんてん系宇宙論を 解説したものです。この解説は2016年1月6日付け記事から始めていますので、カテゴリー(五次元宇宙に生きる(空間))の同日付け記事から読んでいただくことをお勧めします。その後(五次元宇宙に生きる(心))を経てこちらに至ります。なお、本は有償でもお譲りしますが、「のしてんてん系宇宙論」 のページにあります本の画像をクリックしていただくと、自力でプリントできますので、無料でご利用いただけます。)
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