心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(本来)心にこだわりはない、
こだわりが無い故に恐怖がなく、一切の顚倒した夢想を遠ざけることが出来る
私のような凡人には量子力学で行われている数学的な論証は皆目わかりません。
なぜわからないのか。その理由は簡単です。数式が読めないからです。
ではもし、私がよく勉強して、相当に優秀な人間だったら量子力学でノーベル賞でも取れる人間になったでしょうか。
もちろん否と言うしかありません。
それはつまり、数式を理解するという問題とは全く別の要素、その人の持っているトータルな意識と直観力、宇宙を洞察する理解力が必要とされるからです。
量子力学の歴史を見るとそれがよく分かります。
量子力学は世界を変える様々な公式を生み出してきました。しかしそれはその数式そのものに実在性があるのではありません。それは実際の宇宙を説明し、その在り様を指し示すための言語でしかないのです。つまりそれを実証するためには、自然の振る舞いを観察することが理論の完成には不可欠なのです。
ところが、量子力学にあっては、この自然の振る舞いに悩まされ続けてきたのです。まるで自然の方が、完全な理論の枠に納められるのを嫌がっているようにさえ見えるのです。
一方不完全なままでも量子力学は実際に、自然に対してうまく適応しているのも事実です。最近では量子コンピューターがありますし、大戦中には原爆も生み出しました。
良くも悪くも、強大な力を自然の中から導き出している事実。それは何なのかと考えてみれば、科学者がミクロのスケールに気付き始めたということでしょう。人間の認識する世界では無に等しい素粒子の世界に、すべての本質が詰まっている。
ミクロの世界に目をやることで、科学は自然の摂理の底に達しているのかもしれません。
その本質、あるいは自然の摂理のどん底を見抜く力を最も必要としているのは、何よりも量子力学に他ならないのです。
量子力学でノーベル賞を取るためには、量子力学で必要な言語(数式)を理解し自由に使えるということだけでは足りないということです。
必要なのは宇宙に対する深い洞察力。そしてそれを発展させるイメージ力と創造でしょう。何より宇宙と直観でつながる意識が大切なのです。直観からやってくるものには科学を越えた「何か」があり、その「何か」が新たな自然の営みの理解につながって行く。そして何より、この「何か」が、やがて般若心経にもつながって行く可能性があるのです。そう思えることがこの記事を書きはじめた発端なのですが、これは次回に譲りたいと思います。
さてそう考えると、有名なアインシュタインとボーア論争の意味がいくらか凡人にも分かるようになります。
それは次のような理由なのです。
「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を残したアインシュタインは、論理(言葉)によってすべての宇宙は言い表せるはずだという信念の人でした。厳密な科学思考を積み上げてきた理論に曖昧さがあってはならないというのです。
それに対してボーアは、宇宙は言葉で言い尽くせないと主張します。理解できない自然の現象があれば、まずそれを受け入れ、それに適合する新しい論理を考えるしかない。ということなのでしょう。
二人の論争は、宇宙に対する解釈の違いでした。古い解釈を守るのか、新しい解釈に進むのかという戦いです。
そこで私達が知りたいのは。この「解釈」とは何なのかということです。
辞書を調べると、解釈とは、㋑自然の営みを、 ㋺人間の立場から ㋩説明する という意味だと分かります。
ところで二人の論争は、量子の世界で起こりました。ミクロの世界のことです。そこで観る風景は、常識では理解できない世界だったのです。
たとえばこんな実験です。
①一個の光子を向かいのスクリーンに飛ばすと、感光して一つの点が現れます。何度試してもスクリーンには一つの点しか現れません。私達には分かりやすい常識です。
②今度は、その中間に、2本並んだスリット穴のある仕切り板を置いてみます。すると、驚いたことに、スクリーンに到達する光はスリットの数だけ、つまり二つの点が現れたのです。(光子はどこで分裂した!?)しかもその二つの点は実験を何度やっても一致することなく、てんでバラバラに記録されます。1つの光子は二つの穴を同時に通り抜け狂ったようにスクリーンに到達しているのです。いったいこれは何なのでしょうか。
③さらにこの観測を何百、何千回と続けますと、スクリーンを感光させる光の点は点描画のように見事な波模様を描くのです。予測不能の光の振る舞いですが、巨視的に観れば一つの目的(波)のために動いていると分かったのです。
①の場合は光の動きは完全に予測出来ますが、②の場合には、光がスリットを通るとスクリーンのどこを感光させるのか全く予想できません。しかし結果としてスクリーンには波の点描画が出来上がるのです。
この自然現象は常識の根本を揺るがしました。物質(光子)は波だと言わざるを得ないのです。
発射された光の粒はスクリーンのどこに行くのか。光の振る舞いは、ただ確率と言う曖昧さで理解する以外に方法が見つかりませんでした。
ボーアは、その自然の振る舞いを受け入れた。つまりその背景には科学万能主義からの撤退があった訳です。確率という曖昧さがあって初めて、自然は豊かな姿を見せてくれる。と考えたのでしょう。
アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言い張ったのは、まさに人間が初めてみるこの風景に対する、ボーアの立場に対してだったのです。
先の解釈の意味から考えると、
㋑常識では理解できない光の振る舞いに対して
㋺(ボ)人は自然を知り得ない ⇔ (ア)自然を完全に記述できる
㋩(ボ)確率で説明する ⇔(ア)隠された変数で説明できる。まだ見つかっていないだけ。
というように理解できます。
自然科学の歩んできた歴史は、ガリレオの宗教裁判に象徴されるように、心を扱う宗教との対極にありました。
心は曖昧模糊としており、ある人は赤と言っても、別の人は黒と言って成り立っている世界です。てんでバラバラの心象に求心力を与えて救済しようというのが宗教であった訳ですが、
科学はまさにそのあいまいな「心」を捨てて、見たままの自然を記述する方法で探求を進めてきました。そしてこの方法が自然を利用するために役立ちました。豊かな文明が生み出され、科学は大成功をおさめてきたのです。
教会もその成果を認めざるを得なくなりました。何世紀も経て教会はガリレオの無罪を言い渡しました。いったいどんな補償をしたのか知りませんが・・・。
もちろん、アインシュタインを教会と同じと言っているのではありません。次元の違う話です。
そんな科学が直面した事態が、人類がまだ見たことの無い世界の姿だったわけです。
心の現象を捨象することで進歩してきた科学ではありました。しかしその科学が直面した風景と言うのが、こともあろうか、不確かな「心」がかかわってくる世界だったのです。
実際に手に取ったり目で見ることの出来ないミクロの世界。
そこでは「観測」によってでしか実証できないのが量子力学の研究です。そしてその「観測」そのものが実は「心」であるということにようやく気付かされることになったのですね。
一粒の光が飛んでいる光景を観測するためには、観測するための光を照射して見るしかありません。
たとえばビリヤードの赤玉がサイドポケットに向かって転がっていると考えてみましょう。
私達のスケール(自分を1とする世界)では一目でそれを観測することが出来ます。それは観測に使う光を赤玉に照射しても赤玉に与える影響は無に等しいからです。
しかし量子力学のスケール(粒子を1とする世界)では、赤玉は一粒の光子と考えられます。するとこれを観測するために使う光子とは白玉に該当しますね。これを観測するためには白玉を赤玉に当てるしかない訳ですから事態は分かりますよね。
観測した瞬間、つまり白玉が赤玉に衝突した瞬間、その観測自体が赤玉の進路を変えてしまうのです。ありのままの自然を観測することは不可能だという驚きの世界に私達は直面したのです。
観測自体が自然を変えている。つまり知ろうとした(心の働きが実験を行い)そのことが、世界を変えてしまうのです。これが量子力学の行き着いた宇宙だったのです。
「サイコロ=心」
そう考えてみると、アインシュタインとボーアの論争の核心がさらによく分かります。ガリレオから続く科学の旗手アインシュタインに対して、心を科学に取り込みながら進もうとしたボーアの論争です。
これは自然に対する解釈の問題なのです、私達人間が自然に対する立場をどうとるのか。つまり自然は(可知)か(不可知か)の論争であり、それがいかに熱いものだったのかは、この直面した問題の大きさを思えば容易に想像できるのではないでしょうか。
対極にある宗教と科学という歴史は、たとえて言えば富士山を静岡県側と山梨県側から登るようなもので、互いに真摯に登りつめて行けばやがて山頂で一つの道になる。共に御来光を眺める日が来ると信じていいような気がするのです。
おそらく、「般若心経」はこの二つの道を繋ぐ重要なカギを持っているのです。
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃・・・・
(以下参考記事)
(現在連載中 量子力学を考える)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)9 量子力学との合流1
(般若心経をどう理解するか)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)1
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)4
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)5
般若心経を読み解く? 五次元的解釈)6
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)7 一部加筆
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)8 追補
(以下は数回分をまとめた長文です)
それよりZIP様、
私はZIP様の言われる「本能」について知りたいです。
たとえば、
本能とは宇宙の摂理そのものなのか
あるいは人間固有の本質なのか。
心とは本能が生み出す妄想なのか
あるいは宇宙の波動そのものなのか。
私達に必要なのは、言葉に潜む意味なので、そしてその意味こそがZIP様そのものですから、お話頂ければ嬉しいです。
説明原理は人が本能として創出するものです。
創ることは「Hypotheses non fingo」というわけです。
だから科学と相性がいいのだと思うのですがいかがですか。
なぜ「Hypotheses non fingo」が
創ることになるのでしょうか。
「創る」と「有る」では大きな違いがあるようにも思われますが、ZIP様はどうお考えですか。
事物の側に在ると思って自分が創りだしている特性が即ち説明原理というわけですから。
このお考えには、私もまったく同感です。
言葉としては、「創る」とは無いものから在るものをつくりだす(因果)という意味があり、「在る」とは因果なく存在しているもの。と大きな違いますが、
その言葉自体が、説明原理によって動いているものですからね。誤差なしの思いがあります。なんだか距離が近づいた気がしま^す^
般若心経もまた説明原理ですよね。
ではこの説明原理とは何だと思われますか?
人間が本能として創出するものと言われますが、それは何だと思われますか。
中動態で動かなければいいのに、なぜ本能はこんな無駄なものを生み出すのでしょう。
ZIP様のお考えにとても興味を持ってしまいます。
良かったらお付き合いください。
不思議ですが、説明原理は確かに存在します。これを否定することは出来ませんね。
では、安定同位体素粒子が、説明原理を生み出しているのかもしれませんね。そう考えてもいいかもしれない。
これを本能という言葉で片付けても解決しないのであれば。
もしかしたら、心(説明原理)は無駄なものではないのかもしれない。
それは素粒子の属性とは考えられないでしょうか。
生きているというこの感覚自体が、我という意識を生む。一見無駄と思える振る舞いが、実は何か大きなものを成し遂げるための、素粒子の必然的な振る舞いだと考えたら、どうでしょう。
光の実験で、部分を見たらデタラメな観察結果にもかかわらず、結果として波の振る舞いをしていたように。
この考えはいかがですか。
自然は何か大きなことを成し遂げるための目的因などは持たないはずです。
4時に目覚めまして、外は見事に透明な空でした。半月と☆がきれいでした。もう白み始めましたが。
月は半分に見えますが、見えない部分も存在している。
全体を知っているから、説明原理は動きません。安心して半分の月を鑑賞してその美しさを安心して喜べるのですね。
改めてそんなことを考えました。
「自然は何か大きなことを成し遂げるための目的因などは持たないはずです。」
これもまた説明原理の働きですね。なぜなら、私達はそれを知らないからです。「知らない」→「何故・何?」と動いて行く。説明原理はここに在ると私は思うのですが、ZIP様はどう思われますか。
この思考の流れは自然に起こります。得体の知れないものを前にして、何も思わないで観ていられるのは赤ん坊の時代だけですよね。
「自然は目的因を持たない」のはその目的が必要ないからだとも考えられますね。