昨日の記事「百年前の熊本観光情報!」を書きながら気がついたのだが、名勝舊跡(めいしょうきゅうせき)の中に「天草」の「あ」の字も出てこない。「清正公三百年會」が行われた明治42年(1909)という時代を感じさせた。そういえば、父が書き遺した記録の中にも、昭和10年に大矢野島の上村小学校への転勤が決まった時、祖母はまるで父が離島への流刑にでもなったかのように嘆き悲しんだとある。当時の天草は大小100余りの島々を行き来するのは船しかない時代。「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」とハイヤ節に唄われるほど船乗りたちにとって絶海の楽園だった牛深の湊町はあったものの、まだまだ島のほとんどが貧しい寒村だったわけだ。
「清正公三百年會」から100年後の今日、天草は阿蘇と並び熊本観光の代名詞となった。それはやはり昭和41年(1966)の天草五橋開通が時代を変えたと言わざるを得ない。今では熊本市内から天草西海岸まで日帰りで行けるようになった。たしかに便利にはなったし、天草にとってもその経済効果は計り知れないものがあるだろう。しかしその代償として失ったものも多いのだろうなぁ。
▼天草西海岸

▼寛永はいや節(「はいやくまもと2010」より)
「清正公三百年會」から100年後の今日、天草は阿蘇と並び熊本観光の代名詞となった。それはやはり昭和41年(1966)の天草五橋開通が時代を変えたと言わざるを得ない。今では熊本市内から天草西海岸まで日帰りで行けるようになった。たしかに便利にはなったし、天草にとってもその経済効果は計り知れないものがあるだろう。しかしその代償として失ったものも多いのだろうなぁ。
▼天草西海岸

▼寛永はいや節(「はいやくまもと2010」より)