今日は玉名市大浜町の母の生家へ、母と連れ立って盆のお参りに出かけた。菊池川の大浜橋を渡る時、橋の下流側で護岸工事が行なわれているのが見えた。何気なく通り過ぎようとして「ハッ!」と気づいた。「清正公枠」が無くなっているではないか。帰りに現場まで行ってもう一度確認した。やはり消えていた。「清正公枠(せいしょこわく)」というのは加藤清正が治水対策のために築造したといわれるが、大雨などで川が増水した時、水の勢いから岸を護るための石積みの構造物のことで、一般的には「石刎(いしはね)」といわれるものだ。もちろんこの「石刎」は菊池川だけでも何か所もあるし、熊本県内の他の河川でもあちこちで見ることが出来る。一か所や二か所無くなったところでどうということはないということなのかもしれないが、ここ大浜橋の直下は、かつて高瀬米を積み出した港があったところでもあり、「清正公枠」も合わせ、歴史的景観として残す方法は無かったのだろうかと釈然としない思いで帰路についた。
この「清正公枠」も含め、僕の近いところで歴史的景観が次々と消えていく。京町のわが家の近くの鬱蒼と生い茂る木々の中にあった、明治9年の「神風連の乱」の名残りをとどめる与倉知実中佐の旧居跡は、マンションが建てられることになり木々もろとも消えて無くなった。また、坪井堀端の小泉八雲の熊本二番目の旧居跡の傍にあった地蔵堂はいつのまにか姿を消していた。
熊本県は「観光立県」などと声高に叫んでいるが、一方では多くの歴史的景観を次々と失っている。
「清正公枠」と呼ばれる石積み構造物があった大浜橋そばの河岸
明治9年の「神風連の乱」の名残りをとどめていた与倉知実中佐の旧居跡
小泉八雲の熊本二番目の旧居跡の傍にあった地蔵堂
この「清正公枠」も含め、僕の近いところで歴史的景観が次々と消えていく。京町のわが家の近くの鬱蒼と生い茂る木々の中にあった、明治9年の「神風連の乱」の名残りをとどめる与倉知実中佐の旧居跡は、マンションが建てられることになり木々もろとも消えて無くなった。また、坪井堀端の小泉八雲の熊本二番目の旧居跡の傍にあった地蔵堂はいつのまにか姿を消していた。
熊本県は「観光立県」などと声高に叫んでいるが、一方では多くの歴史的景観を次々と失っている。
「清正公枠」と呼ばれる石積み構造物があった大浜橋そばの河岸
明治9年の「神風連の乱」の名残りをとどめていた与倉知実中佐の旧居跡
小泉八雲の熊本二番目の旧居跡の傍にあった地蔵堂