徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

落語がいま面白い! ~ 幾代餅と紺屋高尾 ~

2013-07-16 15:11:27 | 音楽芸能
 先週の土曜日、早朝から盆の墓掃除に行くので早起きした。4時半ごろ目を覚ましてテレビをつけると、NHKで「日本の話芸」を放送していた。柳家さん喬さんが古典落語「幾代餅」をやっていた。結局、最後まで聞き入ってしまった。最近、落語が面白いと強く感じるようになった。これは僕にとって、幼い時の記憶がよみがえったというべきなのかもしれない。僕が小学生の頃までラジオしかなかった。祖母の影響もあってラジオで落語、講談、浪曲、肥後にわかなどの演芸をよく聴かされたものだ。
 ところで、この「幾代餅(いくよもち)」という話、「紺屋高尾(こうやたかお)」という別の話と内容はほとんど同じだ。いずれも元ネタは浪曲らしいが、高嶺の花だった吉原の太夫を、商家のしがない奉公人が嫁にもらうという設定は同じで、江戸の代から男の夢物語として好まれていたのだろう。
 「幾代餅」は米搗き屋(精米店)の奉公人が幾代という遊女を身請けして餅屋を開業し成功する話。「紺屋高尾」は紺屋(染物屋)の奉公人のもとに高尾大夫という遊女が年季明けとともに嫁いで来るというお話。ちなみに熊本にも古町に紺屋町という町名が残っているが、染物屋でも藍を使って紺色に染め上げる店を「紺屋」といい、「紅色」を「紅屋」、茶色を「茶屋」と言ったそうだ。

▼「幾代餅」のあらすじ(落語400字ストーリーより)


▼幾代餅(超入門!落語THE MOVIE」NHK総合より)

ぬし、わちきのような者でも女房にしてくんなますか?(幾代太夫:南沢奈央)

流れ灯の ゆくえは知らず 夏の月

2013-07-15 22:12:18 | イベント
▼熊本城長塀前・坪井川精霊流し


▼流れ灯(ザ・わらべ)


現世(うつしよ)は 流るるばかり 走馬灯
  一ノ瀬の 橋のほとりの ホタル茶屋
    精霊流しの 舟がゆく
      送りましょうか ホタルをのせて
        お春の待ってる じゃがたらへ
          流れ灯の ゆくえは知らず
            江戸町に 夢路重荷の 夏の月
              送りましょうか この舟に乗せて
                日本恋しと 泣く人に

消えた歴史的景観!

2013-07-14 18:29:18 | 歴史
 今日は玉名市大浜町の母の生家へ、母と連れ立って盆のお参りに出かけた。菊池川の大浜橋を渡る時、橋の下流側で護岸工事が行なわれているのが見えた。何気なく通り過ぎようとして「ハッ!」と気づいた。「清正公枠」が無くなっているではないか。帰りに現場まで行ってもう一度確認した。やはり消えていた。「清正公枠(せいしょこわく)」というのは加藤清正が治水対策のために築造したといわれるが、大雨などで川が増水した時、水の勢いから岸を護るための石積みの構造物のことで、一般的には「石刎(いしはね)」といわれるものだ。もちろんこの「石刎」は菊池川だけでも何か所もあるし、熊本県内の他の河川でもあちこちで見ることが出来る。一か所や二か所無くなったところでどうということはないということなのかもしれないが、ここ大浜橋の直下は、かつて高瀬米を積み出した港があったところでもあり、「清正公枠」も合わせ、歴史的景観として残す方法は無かったのだろうかと釈然としない思いで帰路についた。
 この「清正公枠」も含め、僕の近いところで歴史的景観が次々と消えていく。京町のわが家の近くの鬱蒼と生い茂る木々の中にあった、明治9年の「神風連の乱」の名残りをとどめる与倉知実中佐の旧居跡は、マンションが建てられることになり木々もろとも消えて無くなった。また、坪井堀端の小泉八雲の熊本二番目の旧居跡の傍にあった地蔵堂はいつのまにか姿を消していた。
 熊本県は「観光立県」などと声高に叫んでいるが、一方では多くの歴史的景観を次々と失っている。


「清正公枠」と呼ばれる石積み構造物があった大浜橋そばの河岸


明治9年の「神風連の乱」の名残りをとどめていた与倉知実中佐の旧居跡


小泉八雲の熊本二番目の旧居跡の傍にあった地蔵堂

息子の誕生日と “ホテル・カリフォルニア”

2013-07-12 20:21:28 | 音楽芸能
 36年前の今日、三男が生まれた。当時は防府に住んでいたが、僕は本社での会議出席のため東京へ出張していた。気になっていたので仕事が終わってすぐ防府の自宅へ電話した。まだ3歳だった長男が電話に出た。長男は「また男だよ」と言った。六本木の会社寮に泊まっていたが、夕食の後、同じ会議出席のため出張していた他事業所の仲間たちと一緒に六本木の街へくり出した。地下のクラブに入った。薄暗いフロアで若い男女が汗かきながら大勢踊っていた。僕らはビールを飲みながらその様子を眺めていた。やがてステージのバンドがイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を演奏し始めた。まだ日本で流行り始めて間もなかったと思う。わりと出来の良いコピーだった。三男の誕生日が来ると僕は「ホテル・カリフォルニア」を想い出して聴きたくなる。


玉名干拓の歴史と労働歌

2013-07-11 19:12:03 | 歴史
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」に「横島干拓」に関する話が載っていた。先日、熊日新聞に掲載された玉名市の横島町文化財保存顕彰会が「玉名干拓遺産」に関するDVDを製作したという記事に関するものだ。僕も以前から「玉名干拓遺産」についてはとても興味があり、現地を見たり、資料を集めたりしている。というのは、母の生家がある玉名市大浜町も、大昔は菊池川の河口に浮かぶ一つの砂州に過ぎなかったという。つまり大浜町やその周辺の町も干拓によって出来た町だからである。玉名干拓の歴史を知ることは僕のルーツ探しのような気もするのである。
 それはさておき、横島町には「横島潟担い(がたいない)節」という民謡が残っている。これはかつて、干拓工事の築堤の際に潟土を堤防の上に積み上げてゆく作業に従事した人たちが唄った労働歌である。同じように干拓労働者が唄った民謡「八代おざや節」は広く知られているが、「横島潟担い節」の方はまだ玉名以外ではほとんど知られていない。実は僕も何かのイベントで垣間見た程度で、キチンと聞いたことがない。ぜひいつかこのブログで映像とともにご紹介したいと思っている。

▼横島干拓地


▼八代おざや節

“ロータス(Lotus)1-2-3”よ ありがとう!

2013-07-10 16:42:38 | ビジネス
 パソコンの表計算ソフト「Lotus1-2-3」が市場から撤退するという。会社勤めの頃、このソフトにはとてもお世話になった。80年代の半ばから10年ほど使ったろうか。特に「マクロプログラミング」の基礎を学んだのも「Lotus1-2-3」だった。90年代に入り、会社の標準ソフトが「Excel」に変わった。僕は「Lotus1-2-3」には何の不満もなかったが、渋々「Excel」に切り替えざるを得なかった。パソコンソフトの世界では「一度流れができると、その流れを変えるのは不可能に近い」とよく言われる。ワープロソフトの「一太郎」から「Word」への流れもまた然りだった。
 僕はパソコンがオフィスワークに使われ始めた80年代の初頭からパソコンを使わざるを得ない環境にあったが、思えばいろんな表計算ソフトを使ってきた。初期の頃はNECのN5200に搭載されていた「LANPLAN」。富士通のF9450に搭載されていた「EPOCALC」など。表計算ソフトは、それまでのCOBOLやBASIC言語を使ったプログラミングの煩わしさから解放してくれた。僕は常々、表計算ソフトが生まれなかったら今日のようにパソコンが普及することはなかっただろうと思う。
 「Lotus1-2-3」はその歴史的役割を終えて退場して行く。しかし、パソコン史上に燦然とその名を残すだろう。「Lotus1-2-3」よ ありがとう!


潮来節と文人墨客たち

2013-07-08 21:08:21 | 音楽芸能
 大河ドラマ「八重の桜」は前半の山場を過ぎようとしているが、新島八重と関わりの深い徳富蘇峰・蘆花の兄弟がはたして後半に登場するのかどうか気になるところではある。
 その徳冨蘆花が29歳の明治29年(1896)の秋、12日間にわたって利根川を船旅した時の紀行文「水国の秋」というのがある。これは兄の蘇峰が主宰する「国民新聞」に掲載されたものだが、その一節に水郷潮来について次のように書かれている。

 江戸時代、東北地方から米などの物資を江戸へ運ぶのは銚子から利根川に入り、遡って潮来を経由して江戸へ運んだため、潮来は水運の要衝として大いに栄えた。ところが明治に入り、水運が廃れるとそれにともなって潮来も寂れて来た。蘆花が旅した明治29年ともなると潮来を支えていたのは遊郭だけだったようである。しかし、「潮来節(曲)」で知られる「俚揺の古里」として、多くの文人墨客たちの旅ごころをくすぐっていたようだ。

▼潮来三曲集(潮来音頭/潮来甚句/銚子大漁節)

  2013.7.6 山鹿温泉さくら湯(池の間)
  振付 中村花誠
  立方 ザ・わらべ(中村くるみ・上村文乃)
  地方 本條秀美と本條秀美社中/中村花誠と花と誠の会

ザ・わらべ ~ 由緒ある座敷で山鹿の古謡を踊る ~

2013-07-06 20:35:08 | 音楽芸能
 今から380年前、肥後細川藩初代藩主・細川忠利公が開いた御茶屋を起源とする山鹿温泉元湯さくら湯。昨年10月、約40年ぶりに再建されて以来、半年余りで入湯者が10万人を突破したという。さくら湯は、平安の昔から美肌の湯として知られていたという山鹿温泉のシンボルだ。
 今、日本の邦楽界をリードする本條秀太郎さん(本條流家元。民謡・端唄・俚奏楽三味線奏者。多くの大河ドラマの邦楽指導、最近では「八重の桜」、BS時代劇「酔いどれ小籐次」の邦楽指導など)は、山鹿地方で古くから唄われていた古謡を発掘し、自らが提唱する「俚奏楽(りそうがく)」として再構成したのが「山鹿湯籠踊り(やまがゆかごをどり)」。
 今日は入湯者10万人達成記念イベントとして、「御前の湯(龍の湯)」の南側に隣接した「池の間」で邦楽と日本舞踊が催され、異常な蒸し暑さにも負けず、ザ・わらべが艶やかな踊りを披露した。


YouTube にアップした古い映像を より鮮明に!

2013-07-05 14:31:23 | Web
 YouTubeへ動画を投稿し始めて5年目となり、アップロードした本数も公開・非公開合わせて300本に近づいてきた。最近気になってきたのが投稿初期の頃の映像の画質。当時とはビデオカメラも編集するパソコンも高性能化し、より高画質の映像を作れるようになったが、残念ながら初期のオリジナル映像が残っていない。残っているのはYouTube上の映像だけだ。YouTube上の映像を一度ダウンロードして修整を試みたが映像が劣化する一方だった。何か良い方法がないかと試行錯誤していたのだが、「これは!」という方法が見つかった。それはYouTubeの動画加工ツールの中にある「YouTube動画エディター」を使う方法だ。最初の頃はいろんな制約があって概ね低い解像度でアップロードしている。これを最近の高解像度でアップした映像とつなげてみた。するとなんと低解像度の映像も高解像度に引き上げてくれるのだ。もちろん元が低解像度なので高解像度でアップした映像と全く同じレベルというわけにはいかないが、明らかにより鮮明になっている。これはおそらく「YouTube動画エディター」がリマスターのようなことをやってくれているのではあるまいか。いずれにせよ古い映像を再生させる楽しみが増えた。

▼低解像度の映像と高解像度の映像を組み合わせた「ザ・わらべ舞踊名曲集(1)」
(画像をクリックして再生)

藤田嗣治が子どもだったころ

2013-07-04 22:56:06 | 歴史
 一昨日、「レオナール・フジタとパリ」展を見て、藤田嗣治が少年時代を過ごした熊本の町や母校・熊大附小の様子がどうだったのかが急に知りたくなった。何か手がかりになるものはと考えたら、わが家に熊大附小の百年誌があることを思い出した。今から38年も前の昭和50年(1975)に発行されたものだ。学校創立の正確な年月日はわかっていないようだが、明治天皇の行在所となったり、古くは勝海舟や坂本龍馬らが訪れた新町の御客屋を一時期校舎としていたことや、西南戦争で熊本隊を率い西郷軍に加わった池辺吉十郎がさかんに授業参観に訪れていたという記録が残っていることなどから明治10年の戦争よりは前であることは確からしい。藤田がこの小学校に通ったのは生年からみて、西南戦争から10数年後の1890年代であることは間違いない。さすがに当時の藤田の様子を知る方もいなかったのか彼に関する記述はない。しかし、当時の小学生や教職員の様子が写真とともに断片的に紹介されている。ついでに稗田町の一角にある彼の旧居跡を訪れてみた。わが家から歩いて10分くらいのところだが、ここは今では記念碑が建てられている。僕が小学生の頃、すぐ近くの同級生の家へしょっちゅう遊びに来たものだが、その頃は記念碑などはなかったと思う。これは時代とともに藤田の評価が変わったことの一つの表れなのかもしれない。


4人兄弟の末っ子として生まれた藤田嗣治


稗田町の旧居跡

漱石と舞妓ハ~ン!

2013-07-03 20:45:47 | 文芸
 夏目漱石が明治40年(1907)に職業作家として初めて朝日新聞に連載した「虞美人草」は、京都祇園の旅館で執筆したと言われている。漱石と祇園の茶屋「大友」の女将・磯田たか女とのエピソードは先日もテレビで放送していたが、漱石が友人の高浜虚子とともに初めて都をどりを見、祇園で一夜を過ごした時の話が、虚子の随筆「漱石氏と私」の中に出てくる。花街遊びなどには縁遠いイメージの漱石の様子がうかがえ微笑ましい。その最後の一部を紹介すると・・・



3年ぶりの再会! ~ レオナール・フジタとパリ 展 ~

2013-07-02 18:28:32 | 美術
 今日から熊本県立美術館で「レオナール・フジタとパリ」展が始まったのでさっそく観に行った。フジタ独特の乳白色で描かれた裸婦像を始め、初めて実物にお目にかかるものばかり。その中に3年ぶり2度目の再会をはたした作品が2点あった。それは、1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」でトレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれたもの。もう1点は墨で描いた「女性像」である。この2点、実は普段、熊大附属小学校の校長室に飾られている。3年前に母と一緒に附属小学校の校長室を訪ね初めて拝見した。その時は作品にまつわる詳しい話はあまり聞けなかったが、今回は詳しい解説が掲示されていて経緯がよくわかった。それによると、昭和4年(1929)9月、フジタは17年ぶりにパリから当時の妻ユキ(リュシー・バドゥー)を伴って帰国する。そして東京、大阪、福岡で個展を開いたが、福岡の会場に附属小学校の関係者がフジタを訪問。熊本へ強い望郷の念を抱いていたフジタはその場で作品2点を母校に寄贈することにした。というわけだ。3年前に観た時にはよくわからなかった「女性像」の隅の書き込みが、今回は間近で見ることが出来たので読み取れた。それは次の様に書いてあった。

「為 記念 報恩 或寄贈 昭和四年十一月二十七日(誕生日)
 熊本縣第一師範学校附属小学校 小学校卒業生 藤田嗣治」


裸婦(1923年)フォール美術館(フランス)蔵