中国の神仙思想を根拠にして、ヒスイは不老長寿の象徴であったとする解釈があるが、トークセッション「翡翠と縄文」の申込者は、そんな類いの話は期待しないで頂きたい。スピリチュアルな話しもいっさいなし!( ´艸`)
幾年も土中にあって、なお瑞々しい輝きを失わないヒスイに縄文人はなにを感じただろう?と想像してみて欲しい。
しつこいようだけど、最後にもう1回宣伝(笑)
5億年前に地中深くで誕生して、隆起した山塊から崩落して風雪と激流で砕かれ、海に流れ出て磨かれるまでが「地球とヒスイの物語」
それを得がたい珍宝と拾った人がいて、加工した人、運んだ人がでてからが「ヒトとヒスイの物語」のはじまり。
やがて身に付けた人、伝世した人と物語は紡がれ育っていくが、モノの価値を素材の希少性のみならずヒトとの物語に見出すなら、そのどの時点がヒスイ装身具の完成といえるのだろうか?
簡単にいえば、同じ時期の同じような勾玉であっても、卑弥呼が身に付けていた証拠があれば、評価は段違いに高まるのだ。
一時は土中に埋もれていたにせよ、写真の三内丸山遺跡から出土した大珠にであったことが、わたしがヒスイ職人になる縁に繋がっていったのだから、物語は5,000年も続いている訳だ。幾世もの人の営みとは無関係に、鉱物のヒスイは輝き続ける。
アミニズムやシャーマニズム的な解釈以前に、プリミティブな欲求から「我もかくありたし」と想いを投影して身に付けたのだとすれば、ヒスイは不老不死の象徴といえる。
そういった欲求をフェティシズムというのであると教えてくれたのは、東京電機大学の石塚正英名誉教授で、おおいに納得している。
「糸魚川翡翠展2021」の来場者、そしてトークセッションではそんな話をしたいと思う。