ヨイショッ!と動こうとしているかのような非対称のヒスイ石笛。
注文主から依頼を聴いていると、問わず語りに人生相談になることが多い。
話を聴いてもらってスッキリした!と言われれば私も嬉しいが、その時から依頼主とヒスイ、そして私の三者のセッションが始まり、その結果として作品が生まれる。
納品したら「・・・存在を肯定してもらっている気がして、ずっと掌に包んで撫でさすった・・・。」という反応で安堵。
モンゴルからシベリア方面の音楽家は、音楽による療術家であることは知られているが、ヒスイ職人にも似た側面があるように感じる。
だから加工においては操作願望を持ってはならんのだ。
操作願望を持った途端に私は支配者となり、お客さんともヒスイとも主従関係になってしまう。
想いは籠めないし、真心も籠めない。それは暑っ苦しい雑念で嫌らしく感じる。
目の前の仕事にどれだけ無色透明かつ誠実であり得たかだけが問題。
この基本姿勢は整体(俗に野口整体)から学んだし、それが縄文をテーマにする私のヒスイ加工の実相。
螺旋紋を線刻したから縄文というのでは、内実のない言葉遊びや売らんがための宣伝文句と変わらない。
縄文と冠すれば何でも縄文なのか?
外堀を埋め、安易に傾く自分を追い詰めることで新しい何かが生まれる。
縄文人(見習い)の求道は続くのだ(笑)
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