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ロシア外交問題を対話による相互理解で解決した男・・・「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛

2022年05月18日 07時31分37秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
明治から今日までの日露外交は、ロシア側の二枚舌外交で翻弄され続けてきた、が、しかしである。
幕末の「ゴローニン事件」では、戦争や賠償金もなしで対話による相互理解で解決した人がいた。
幕臣でもない廻船問屋の主であり、探険的な航海により北前航路を開発していった高田屋嘉兵衛その人だ。
 
ロシアの南下への野心は、ウラジオストックが「極東の支配」を意味するロシア語であることが示しているが、江戸時代からロシア軍艦は日本の沿岸に出没しては、測量や略奪を繰り返していた。
 
そんな緊張のなかで発生したのが「ゴローニン事件」であり、択捉島付近を航海中の嘉兵衛は、事件の報復としてロシア軍艦に拿捕され人質となった。
 
しかし嘉兵衛の人徳と卓越した操船技術によりロシア軍水兵から「大将」とまで呼ばれて尊敬を受け、別れ際には涙まで流したそうだから、よほどに魅力的な人物であったのだろう。
 
水呑み百姓から廻船問屋の主にまでなった生粋の海の男、高田屋嘉兵衛とは、いかなる人物で、どのように交渉したのか?
ロシアのウクライナ侵攻から興味を持って、司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読みだした。
全6巻のうち、現在は幕命をうけて千島列島の航路開拓をはじめた4巻目。
 
操船に関して首を傾げる記述もあるが、霧に隠れる択捉島の西の沖を目指して親潮に逆行して北上し、頃合いをみて東へ回頭、択捉島が視認できたら岸辺を流れる反流に乗って再び北上して択捉島へ至るN字航路を開拓する場面など、ヨットやシーカヤック経験者なら唸るようなリアルさで、流石に司馬遼太郎だ。嘉兵衛の航路開拓以前は、最短距離を航海していたので遭難が多かったのだ。
一般に北前船や千石船と呼ばれているのは、船型でいうと弁才船(べざいせん)のことだで、現在の船なら概ね100トンクラス。本州沿岸航路に使用された船は半分サイズの小型船の方が多かったようだ。
 
 
松浦武四郎、最上徳内など、幕末に北海道を探検した人物は、アイヌ民族をリスペクトするリベラルな人道主義者ばかりで、非常に魅力的だ。
もう少し読み進めるとゴローニン事件。
 
 
 


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