<秋田県横手市大鳥井町 2009年9月6日(日)
<strong>2009年9月6日(日)、財団法人奥州市文化振興財団 奥州市埋蔵文化財調査センター主催の所長日曜講座 特別企画バスツアー「後三年合戦の地を訪ねて」が行われましたので参加しました(参加者42名)。雄物川郷土資料館~沼柵跡を見て、秋田県横手市大鳥町にある大鳥井柵跡の見学です(10:30~11:00)。
清原氏の諸柵について~横手市教育委員会の資料より
「奥州三年記」に記載されている清原氏の城柵は、金沢柵(かねざわのさく)と沼柵(ぬまのさく)であるが、その比定地については未だに確定されていない。一方、前九年合戦「永承6(1051)年~康平5(1062)年]を記す「陸奥話記」に記載されている大鳥井柵の比定地については、発掘調査によって、空堀や土塁などの遺構やかわらけの遺物が出土したことによりほぼ確定されている。つまり本来の本宗家清原氏の居城が大鳥山と呼ばれた「大鳥井柵(おおとりいのさく)」と見られる。
「(黒沢尻五郎)正任(まさとう)初めに出羽の光頼が子、字(あざな)は大鳥山太郎頼遠(よりとう=清原頼遠)が許(もと)に隠れつ。後に宗任が帰降せし由を聞きて、また出で来たり了(おわ)りぬ。」(陸奥話記)頼遠は、清原武則の兄光頼の子。
小吉山火葬墓跡
火葬墓には墨書された小石が無数に置かれていた。
大鳥井柵(おおとりいのさく) 清原氏の確実な城柵とされている。横手市役所本庁舎から北東約2kmの横手市大鳥町にあり、小吉山(こきちやま)、大鳥井山、台処館(だいところだて)と称される3つの丘陵からなる。遺跡の南側と西側の麓を横手川が西北流して、雄物川に注ぐ。
調査は、昭和52年(1982年)=(注:昭和52年なら1877年のはずなのに、何故かこうなっていました。1982年なら昭和57年)から7年にわたる発掘調査が行われ、小吉山東部(標高約75m)からは二重に巡る土塁・空堀が、さらにその内側からは柵列も検出され、防御性の極めて強い城柵であることが明らかとなっています。また、柵に沿って櫓(やぐら)と推定される建物跡も存在し、外側の堀には土橋が架かる場所も発見されています。
これらの施設で区画された内部には、掘立柱建物跡や竪穴住居跡などがあり、掘立柱建物跡のほとんどは、1間×1間ないし2間×2間の小規模である。竪穴住居跡にカマドは無い。遺物は、椀と小皿がセットになった「かわらけ」が300点余り出土し、この時代を考える上で貴重な資料となっている。そのほかに、中国製の陶磁器が出土している。
遺跡の時期は、10世紀後半から12世紀代とやや幅があるが、この間断絶することなく遺物を確認できることから、200年余りも継続して使用されていた柵であることがわかる。
大鳥井柵跡は、文献と考古資料を照合できる遺跡であり、その解明が、金沢柵(城)と沼柵にもつながるものと期待されています。
大鳥山太郎頼遠居館址の石碑
南側の大鳥井山頂平坦部に建つ、大鳥井山神社