peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

岩手県紫波町「義経手洗い井戸・義経神社」&リンゴ(林檎) 2017年9月15日(金)

2017年09月19日 | バスツアー

 

「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その4)

2017年9月15日(金)、義経夢の会主催の「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」

参加しました。(その3)「赤坂薬師堂・経清母の供養碑」を見学した後、バスに乗って次の

見学地・岩手県紫波町「義経手洗い井戸・義経神社」まで移動です。

車窓から「白山神社」「蓮華寺跡・紫竹の池跡・阿弥陀堂(向学堂)」「矢島・的場」などの説明を受

けましたが、良くわからないままに通過してしまいました。

(下)「矢島・的場」の説明を聞きながら撮った、その場所と思われる所。

義経空白の6年:義経が平泉の秀衡を頼って、鞍馬寺を出たのが承安4年(1174)2月、16歳の時。そ

れから兄・頼朝の出陣を知り、黄瀬川の陣に馳せ参じたのが治承4年(1180)10月21日、22歳の時で

あった。この間の6年間義経の動向は、『吾妻鏡』を含めたあらゆる史書に全く記されていない。義経

の正史が歴史に初めて登場するのが、黄瀬川の陣で頼朝に初めて対面した時から突如始まるのである。こ

れが世にいう「空白の6年」である。義経が赤沢の地に6年滞在したからこそ、矢島・的場・鐙越(あぶみ

ごし)といった地名が、消えることなく今も残り、地元の住民が親しみを込めて語り継いできたものと考

えられる。[講師・山崎純醒氏作成『2017.9.15 紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー』(史跡解説)

より]

(上と下)「義経手洗いの井戸」は、自動車道路のすぐ傍にありますが、バスは100mほど離れた所に

ある無料駐車場に駐まり、徒歩で往復です。[義経手洗いの井戸・義経神社:(予定)11:20着、11:

30発、坂道徒歩往復とミニ講和]

「義経神社(判官堂)」は、右上の民家の前を通り、150mほど先の小高い山の中にあります。

義経手洗いの井戸:義経は、武術の訓練を終えると、湧き水が溜まる大角家の井戸に決まって立ち寄り、

喉の渇きをうるおしたという。大角家は赤沢の金山下代(げだい、金山採掘を管理する役職。経営管理

する金山本締(もとじめ)の下で山師棟梁とほりこ(掘削工のこと)の作業管理、数量管理、人事管理、

健康管理を行う総責任者)を担った家と云われているが、それを裏付ける古記録はない。

 義経がここに立ち寄るもう一つの理由があった。大角家の一人娘ハルの存在であった。歳は義経と同じ

歳であったという。紫波町の作家・三島黎子氏小説『蓮華寺の月』では、ハルから時に握りめしを馳走

になったりしながら次第に親しくなり、いつしか恋仲になり、やがて義経の子を身ごもったと書かれてい

る。義経は、ハルがまだ妊娠中に赤沢を去り、頼朝の陣に向かったと云い伝えられている。(以下省略)

[講師・山崎純醒氏作成『2017.915 紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より] 

(上)「義経手洗い井戸」を見ながら、講師の山崎さんの話を聞く参加者たち。(下)講師山崎さん。

(上)民家に前を通って義経神社(判官堂)に向かう坂道。登り切った所にはリンゴ(林檎)畑が広が

っていました。

義経神社(判官堂):義経神社はその名の通り、義経を神とする神社で、正式名称は判官堂(ほうがん

どう)である。大角家が代々、自宅敷地内にある判官堂を祀り、義経の由緒を守り伝えている。同家の

屋号も判官堂である。判官堂のお札には弓矢が描かれていて、第二次世界大戦で戦地に出兵する兵士が

参拝、このお札を持って戦地に向かっていった。軍神の神様として崇めたのだろう。

 この神社が世に知られるようになったのは平成12年(2000)以降で、それ以前は地元の人すら知らず、

知っていたのはごく一部の人だけだった。否、赤沢伝承の全てが、誰にも知られずにいたのである。もし、

この義経伝説が、この土地の名をあげる為の宣伝として作られた伝説であるなら、もっと昔から知られて

いてもいいはずである。だが、何故知られず今日に至ったのか。それは、大角家が代々守り伝えてきたあ

ることに起因していると考えられる。

 それは、文治4年の春(衣川合戦の前年)、義経30歳の時、北に旅立つ前にハルと我が子に一目会おう

と赤沢の地を再び訪れた時に始まる伝承譚であるハルとの再会を果たした義経は、秘められた旅だったが

ゆえに、村人の目を憚りながら、慌ただしい逢瀬のひと時を過ごしたという。我が子・小左衛門は数え8

歳になっていた。初めて対面する我が子を、義経は愛おしい目で見つめ、北紀行の目的や事情を伝えた上

で、数刻を過ごした後、後ろ髪を引かれる思いで北へ向かったという。探索方に行き先を知られてはなら

ず、ハルにだけは正直に伝えた上で、大角家の家族には「言わば語るな、語らば言うな」と念を押したの

だという。それゆえ、大角家では、義経との約束を堅く守り、義経が訪ねてきたことも、北に向かったこ

とも黙秘して、代々守り云い伝えてきたのだという。赤沢の義経伝説が世に広まらなかったのは、こうい

う背景があったからである。義経が赤沢を去る際、大角家は、ハルとの縁に感謝して、「判官堂」の屋号

を許したという云え伝えになっている。(以下省略)[講師・山崎純醒氏作成『2017.9.15紫波・赤沢義経

伝承地を訪ねるバスツアー』(史跡解説)より]