2017年9月15日(金)、「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その7)
ブドウ狩り&昼食を済ませた後、最初の見学地は「走湯神社」(予定:14:20着、14:35発、説明と
見学)。走湯神社と高水寺が隣接していましたが、明治の「廃仏毀釈」令で、別々にされましたが、元
は一つの神仏混合の寺院だったそうです。
走湯神社(そうとうじんじゃ):走湯神社は紫波町二日町御堂前の城山公園の北側に位置している。
総本宮が伊豆山神社。全国に末社が153社余りあるという。『吾妻鏡』には、文治5年(1189)9月10
日まで陣ケ岡に陣を張っていた頼朝が、11日朝に高水寺に詣でた後、20㎞北にある厨川柵に夕刻着陣し
たと記されている。頼朝は、高水寺に詣でた際、この寺の鎮守としてあった神社に、自らのゆかりの深い
伊豆の走湯大権現を勧請し、鏑矢(かぶらや)二本を神社のそばにあった大槻木(おおつきのき、ケヤキ
の古語)に射立てて奉納し、奥州合戦の戦勝報告をしたのが神社の由来である。
伊豆の走湯権現は、頼朝が伊豆に流されて不遇の暮らしを強いられた際、北条政子と出逢い、逢引きを
重ねた神社である。この神社にあえて走湯権現を勧請したというからには、何かしらの縁(えにし)を感
じたものと思われる。尚、頼朝が鏑矢を放った槻木は、元禄年間(1688~1704)の頃に焼失している。
現在の木はその後に植えられた木で、元禄からであるから樹齢313年以上ということになる。中は空洞で、
小さな子供なら遊べるほどの広さがある。
もともと高水寺は坂上田村麻呂が勧請した神社であるが、現在は他に移されていて、この地にはない。
移された場所も特定されていない。
走湯神社境内の南側には高水寺由来の寺宝、木造十一面観音立像などが安置された収蔵庫が建てられて
いる。また、北側には清衡が勧請した大祖神(道祖神のこと、悪霊の厄災を防ぎ、道路を通行する人々の
安全を守る神)と、出羽三山の板碑などが建てられている。仏像があることでも分かる通り、この神社は
神仏習合である。走湯神社も、かつては寺の住職であった修験僧も還俗して神主になり、本尊として安置
していた観音像も蟠龍寺に移されてしまったのである。白山神社の薬師堂もこの憂き目に遭っていて、安
置されていた全ての仏像の撤去を命じられている。とんでもない悪法だった訳だが、義経に関係する由緒
書や古記録、刀剣類や什器なども処分されたに違いない。
尚、走湯神社系の神社は、岩手県には6社ある。紫波町(走湯神社)、岩泉町(伊豆神社)、江刺区岩
谷堂(走湯権現)、遠野市上郷町(伊豆神社)、遠野市小友町(伊豆権現)、平泉町(鏡山伊豆権現)の
6社である。[講師の山崎純醒氏作成「2017.9.15紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解
説)より]
(下)高水寺の入り口にも鳥居があり、そこから入場した所にも赤い鳥居がありました。