WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

少年の心の「魔」 2

2007-06-09 | 教育ママ日記

その少年は、人懐っこくて、最初、自分から私に話しかけてきたのです。
「あそこの子たち、誰かしっとる?」
「ううん、知らない。私はあっちで1人で遊んでる子のお母さんよ。」
「うん、わかっとる。」
その少年は、おばあちゃんと2人で自転車で公園にやってきて、おばあちゃんは、用事で、少年一人を公園に残してどこかに立ち去ったようでした。
迎えに来るまで、彼は一人で遊んでなきゃいけない。
歳をきいたら8歳。2年生だと。
じゃあTakと同じじゃん…
でも、背は大きいし、かなり大人びて見えました。
彼はお誕生日は9月だっていうのです。
なぜ9月生まれで8歳で2年生なのか、、、謎…
どこの小学校かも聞いてみました。自転車でここまで来るには遠いところでした。
Takがどこの小学校かも聞かれたので、答えると、「僕はそこに行っていたことがあるから知っている」と…

謎は深まるばかり、、、、、

彼がひとりで藤棚の蔓にぶらさがって遊んでいるときに話したことです。
なんだかわけアリな気がしたので、それ以上は聞きませんでした。

おばあさん2人組みにも、自分から近づいて話をしていました。
人懐っこさと、乱暴で凶暴で教唆的なところは、とてもちぐはぐで、私はとても心がざわざわしてしまった。
おばあさん達は、「ぼく、そんな悪いことばっかりして、いかんねー、おばあちゃんはどこにいってしまったの?」と、あまりまともに相手にしてない様子。
彼はTakと遊んでいるときも、Takを虐めようとか、意地悪をしようというようなつもりじゃないと思うのです。
一緒に遊びたいのです。

Takを自転車に乗せて帰る途で、
「あのおにーちゃんは、自然を大切にしないからいやだった」
と、Takが言いました。
植物や動物や、石や砂を乱暴に扱うのがイヤだと感じたと。

命を大切にする心は、生まれながら誰もが持っているものかも知れないけれど、
教わって気づくもの、誰も教えてくれなければ、奥深く埋もれたまま、ずっと気付くことなく生きていくのかもしれない。
私は、幼児の頃、猫を投げたり、2階のベランダから下に落として、ちゃんと回転して着地するか実験してみたり、友達と、実験と称してカエルを殺したり、蟻を踏み潰して遊んだことがありました。
生き物を「オモチャ」にして遊んでいたのです。
少年の様子はそれと同じ。
「命」を尊ぶことって、何をどう伝えれば、子供は受け入れるんだろう?
あんな残酷なことをしていた私は、いつから、どうやって「命を大切に」「思いやりの心」「憐憫」「慈愛」「敬虔」「畏怖畏敬」…などの心を学んでいったんだろう?

この日のことをどんなうふに書こうか、考えて1週間が経ちました。
あの子は、大切なことを誰にも教えて貰えないままで、大きくなっていくんだろうか。
たぶん…そういう子供はたくさんいると思う。

大人でも…家族への接し方がわからない、子供への接し方がわからない、人とどう向き合っていいかわからない、それで、自分の本意ではなく人を傷つけたり、自分も傷ついていくというケースはたくさんある。
完璧な大人なんかいない。
誰にも教えてもらえなかった大人は、子供に教えたり伝えたりすることなんかできない。
自分の心の中の欠落に気づいた大人は、人や、書物との出会いを求めて、悩んだりもがいたりしながら、何かを探り当てようとする人もいる。でも、気づかないままで一生を過ごす人もいる。
さらにいうなら、その人間性で人を指導したり啓蒙したりできると思っている人はもっと悲しいです。
そんな大人が増えて、少しずつ社会は歪んでいっているんじゃないんだろうか…


私が1週間このことを考えてここに書いているのは、この少年のことをここに引き合いに出して、「社会の歪み」のことを言いたかったのではないのです。
彼と会って、心がとっても「ざわざわ」としたにもかかわらず、私は、あの子供に、何も語ることも伝えることもせずに、そのままTakを連れてその場を立ち去ってしまった。そのことが私の中でずっとわだかまっているのです。

少年は、ほどなくおばあちゃんが迎えに来て、家に帰ったのかもしれないけれど、私の中では、彼はずっと、いつもひとりであの公園にいて、人懐っこく、藤棚の下で憩う人に声をかけては、鳩を蔓のムチで追い回している、まるで子鬼のような気がして、あの子を置き去りにしたきたような気がして、なんだかやりきれない気持ちになってしまうのです。

私はどうすればよかったんだろうと、1週間考えました。

Comments (3)
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