「ミナミヌマエビ」を投入したはいいが、姿を現さな
いので、いるのかどうかも判らない。
これでは、投入した意味がない今日の「滝壺ビオトー
プ」であった。
スノッブなM氏が、またDVDを持ってきてくれた。
「ザメッティ」というグルジアの監督の作品と、ドン.
シーゲルの「中国決死行」という作品。
今回は、しっかりファイナライズも忘れずにして万全
らしい。
ちょっと確かめてみたら、確かに大丈夫なようだ。
本人はちょっとボケが入っているので、確かめるまで
は安心できないのだ。
それで、まず「ザメッティ」というのを観て見る。
M氏曰く「ちょっと変った映画だから、好きなんじゃ
ないか」ということだった。
全く知らない監督の最近の作品で、変わったというか
らどの程度の、と思ってみたのだが、結論から言うと
全く変わった映画と言うほどのものではなかった。
こういう場合の「変わった」という意味は、あまりに
範囲が広いので、一まとめに「変わった」で表現され
ると、今回のことのようなことが起こるのである。
何を称して「変わった」というかは、人それぞれなの
だ。
例えば同じグルジアの「パラジャーノフ」の映画は、
変わった映画の代表と言えるのかと思うが、それは、
一般の映画と比べると明らかな違いがあるからだ。
物語性のない映画。
所謂ストーリーで説明できる映画ではない点が、その
違いである。
反面、芸術性は高い、と思う。
同じように「ストローブ=ユイレ」だって、間違いな
く変わった映画になるだろう。
グルジアの監督というから、「パラジャーノフ」を思
い出し、耽美的な表現をするのかなとつい観るのは仕
方ないことだと思う。
で、M氏が何を「変わった」と捉えたのかは、容易に
想像できた。
表現方法とか様式とかそういうことではなく、飽くま
でも内容だったのだ。
つまり、描かれている物語の内容が、日常的ではなく、
非現実的なものであるという意味で「変わった」であっ
たのだ。
ざっと説明する。
とある「屋根職人」が主人公。
仕事先で、怪しい雇い主に舞い込んだある仕事の招待
状を、雇い主が死んだことにより自分のものにしてし
まう。
それにはパリ行きのチケットが入っていた。
そして、指令のまま、仕事の内容も判らず場所を移動
する。
辿り着いた先は、非合法な賭博場だった。
しかも、賭けの対象は人間。
対象である彼らは、ロシアンルーレットで最後の一人
になるまでゲームを続ける。
その一人としての招待状だったのだ。
勝ち残れば、莫大なお金が入る。
しかし、負ければ死。
後は、想像したとおりの展開。
こういう話を「変わった」と捉えたのだろうが、話そ
のものは近未来映画に何度も出てくるようなものだし、
戦争映画にもありそうだし(実際ディアハンターの中
にある)、変わったというほどではない。
むしろ類型的だ。
奇を衒ったとは思えるが。
ストーリーではなく、表現の仕方で何かを見せてほし
い、というのが正直な感想である。