「優しい音」で今年の新美南吉賞を受賞したという知らせを頂いたのは、2週間ほど前のことだった。
それをブログにいつ書こう、いつ書こうと思いながら、ずるずると来てしまった。
嬉しいのと同時に、なんというか、とまどいもあった。
この本は、いろいろな人から、いつもの三輪さんらしくないね、といわれてきた。
ほんとうにその通りで、ちょうどリューマチ性多発筋痛症を発症した頃に書き始めた話しだ。
動き回って取材などできないから、動かないでも書ける話しを書くことにした。
書き始めたら、予想以上に楽しくなって、自分でもどんな風に物語が進展していくかわからずに、書き進めていった。
中学3年生の女の子が主人公なのも初めてなら、学校を舞台にして書くのも初めて。
書けただけで、そして、本にしてもらえただけでも上出来だな、と自分では思っていた。
5月27日に、審査員の先生方、あまんきみこさん、宮川ひろさん、藤田のぼるさん、そして、小峰書店の小峰社長から受賞の知らせを受けた。
直接おめでとうの言葉を頂き、ほんとうにありがたいことだと思った。
とまどったのは、あまり新美南吉のことを知らなかったからだ。
てぶくろを買いに。ごんぎつね。おじいさんのランプ・・。
他にどんな作品があるのか調べるために、図書館に飛んでいった。
新美南吉は、大正2年の生まれ。私の父より1年早く生まれた。
けれど、病気で、30歳の時に亡くなっている。
30歳までの間に、たくさんの作品を残したが、もし亡くならなければ、どんな人生があったのだろう。
わずか4歳の時に母を亡くしていて、後に父親は再婚するが、8歳の時には、離婚している。
母親には恵まれない境遇であったようだ。
尋常小学校や女学校の教師をしつつ、小説や詩などを書いていた。
十代の前半にはもう作品を発表していたのだから、才能の開花は早かった。
もう少し後の時代に生まれていたら、医学も進歩して、もっともっと長く創作を続けられただろうに。残念なことだ。
授賞式は7月1日。
◆ 新美南吉記念館
◆ 優しい音
それをブログにいつ書こう、いつ書こうと思いながら、ずるずると来てしまった。
嬉しいのと同時に、なんというか、とまどいもあった。
この本は、いろいろな人から、いつもの三輪さんらしくないね、といわれてきた。
ほんとうにその通りで、ちょうどリューマチ性多発筋痛症を発症した頃に書き始めた話しだ。
動き回って取材などできないから、動かないでも書ける話しを書くことにした。
書き始めたら、予想以上に楽しくなって、自分でもどんな風に物語が進展していくかわからずに、書き進めていった。
中学3年生の女の子が主人公なのも初めてなら、学校を舞台にして書くのも初めて。
書けただけで、そして、本にしてもらえただけでも上出来だな、と自分では思っていた。
5月27日に、審査員の先生方、あまんきみこさん、宮川ひろさん、藤田のぼるさん、そして、小峰書店の小峰社長から受賞の知らせを受けた。
直接おめでとうの言葉を頂き、ほんとうにありがたいことだと思った。
とまどったのは、あまり新美南吉のことを知らなかったからだ。
てぶくろを買いに。ごんぎつね。おじいさんのランプ・・。
他にどんな作品があるのか調べるために、図書館に飛んでいった。
新美南吉は、大正2年の生まれ。私の父より1年早く生まれた。
けれど、病気で、30歳の時に亡くなっている。
30歳までの間に、たくさんの作品を残したが、もし亡くならなければ、どんな人生があったのだろう。
わずか4歳の時に母を亡くしていて、後に父親は再婚するが、8歳の時には、離婚している。
母親には恵まれない境遇であったようだ。
尋常小学校や女学校の教師をしつつ、小説や詩などを書いていた。
十代の前半にはもう作品を発表していたのだから、才能の開花は早かった。
もう少し後の時代に生まれていたら、医学も進歩して、もっともっと長く創作を続けられただろうに。残念なことだ。
授賞式は7月1日。
◆ 新美南吉記念館
◆ 優しい音