紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

2・パパさん、ママさんとの出会い

2004-11-12 12:06:58 | 2・仕事の周辺
1976年の夏。私は、26歳で独身だった。

パパさんとママさんは、二人でバンクーバー郊外に住んでいた。友人のFさんと二人で、アメリカから、カナディアンロッキーを旅した後のことだ。
行きたいところは、全て行き尽くしていた。が、帰る日まで、あと1週間ほどあった。そこで思い出したのが、夫から(まだ結婚してなかったが)話しを聞いていた、パパさんのことだった。バンクーバーから帰るので、どこか安い宿を紹介してもらえないかと思い、パパさんの家に電話をした。

嬉しいことに、電話に出たママさんが、すぐに自分の家にいらっしゃいといってくれた。パパさんは耳が悪いので、電話には出られないのだ。そこで、貧乏旅行でもあったし、お言葉に甘えて泊めてもらうことにした。

行ってみると、ママさんは、1週間でも、何日でも泊まっていいといってくれた。が、朝ご飯は自分で作ること、夕飯はどこかですませてくること。少しの洗濯なら、洗濯機を使わずに、手で洗うこと。などなど、最初にいろいろな約束をさせられた。泊めてくれたのは、ベースメント(1階)で、居間や寝室、キッチン、お風呂場、すべて生活は2階でするので、1階は、広々としているけど、物置のような所であった。

2日ほどたつと、最初の約束は、すぐにどこかにいってしまい、パパさんは、毎晩、ごちそうを作ってくれた。パパさんはコックをしていたこともあって、和食、中華、洋食、なんでもプロの腕前なのだった。

バンクーバーにも、いろいろ見たいところはあった。が、バスで1時間近くかかるし、旅に疲れていたこともあって、ほとんどパパさんの家で過ごした。しじゅうお客さんが来る家なので、夕飯を作る手伝いなどした。そんな生活の中で、パパさん、ママさんは、いろいろな話しをしてくれた。
17歳で、松山からカナダに渡ってきた話し。戦争中収容所で暮らした話し。お手伝いのような仕事に始まって、ガーデナー、コック、いろいろな職業についた話し。日系二世のママさんと出会った話し・・etc。

そうして、私はパパさん、ママさんと仲良くなり、日本に帰ってきた。

(写真:パパさんの家のベースメントには、いつ何人のお客がきても料理が作れるように、巨大な冷凍庫が二つもあった)

★カナダ取材旅行 

4 コメント

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おおらかな方々 (anikobe)
2004-11-12 18:28:24
パパさんご夫婦は、ご自分たちが苦労をなさった分、人に優しくなさる、素晴らしいお人柄なのですね。

そんな方と若い頃お会い出来たのは、紅連さんの幸せだったのですね。
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旅先で (comugi)
2004-11-12 18:44:17
不慣れな旅人には

旅先の親切が身にしみます

それが 大きな力になり 希望になり・・・

気さくなアメリカの両親達

いつかまた 帰って行きたい場所ですよね
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anikobeさんへ (紅蓮)
2004-11-12 21:18:46
お二人はすばらしい人たちで、ほんとうに優しくしてくれましたが、必要以上のというと変ですが、宿は提供してあげるから、ほかのことは自分でやりなさい、と線の引き方が見事で、それには今でも感心しています。
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comugiさんへ (紅蓮)
2004-11-12 21:44:25
きっとcomugiさんのおじいさんたちも、ハワイでは苦労されたと思います。ハワイでは、日本軍は真珠湾攻撃をしたし。

ハワイでも、収容所などに送られたんでしょうか。



海を渡った日系人が、ただの苦労以上のものを背負ったのは、第二次世界大戦があったからで、余計に大変だったわけですよね。
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