漆畑は、朝からそわそわしていた。
多歌子が出勤する前に、入口の自動ドアの具合を確かめたり、靴拭きマットの位置を直したり落ち着かなかった。
表に出てみると、太陽は東から南に回ろうとしていた。
御代田の街も、上信越道が走るあたりも、光のさざ波に覆われていた。
近頃はますます家並が増えて浅間の裾野を遮っていたが、追分から道の駅「雷電」にかけて続く樹林の帯が、そこから上の山の領域を神々しいまでに輝かせていた。
(いつ、多歌子に声をかけようか)
いきなりディナーに誘うというのも、なんだか子供じみているなと気後れした。
多歌子に警戒感を与えるだけで、今日一日が落ち着かないものになってしまう。
やはり、昨日拾った子供の髪飾りをきっかけに、多歌子の日常に迫ってみようと頭の中で段取りを決めた。
しかし、客の落し物かそれとも多歌子の持ち物かと問う行為が、ひどく重いものに感じられた。
漆畑は、自分が女学生を前にした高校生のようにおどおどしていることに気づき、思わず嘆息を漏らした。
ラブレターを通学カバンに忍ばせて、好きな女学生が一人になる瞬間をじっと待っているような息苦しさを覚えていた。
(やっぱり、後にしよう・・・・)
漆畑は店内に戻った。
弟にはまだ何も言っていない。そのことも気を重くする一因だった。
今のうちは腹を割って話せる弟だから、多歌子をディナーに誘うため夜の部の休みを取りたいと相談することもできる。
しかし、いずれ店の継承やら財産の分割について相談しなければならない時が来る。
店の代表者こそ漆畑だが、仕込みから厨房の段取りまで、ほとんど弟夫婦が取り仕切っている。
実質的な責任者の位置を占めるまでになった弟は、兄貴と雇い人の多歌子のことをそれとなく気にしているように思われる。
誰にせよ心の内を推測されるのは鬱陶しいが、前妻の沙織との一件があって以来やはり親身に心配しているのは弟だったから、相談すれば一言あるのは間違いなかった。
「昨日これがここに落ちていたんだけど、多歌子さんのものじゃないかな?」
漆畑はレジのあたりを指差して、黒のH型エプロンのポケットから髪飾りを取り出した。
「あら、可愛い。これ子供用よねえ。・・・・もしかしたら、トイレの場所を聞きに来た女の子が落としたんじゃないかしら」
多歌子は差し出された髪飾りを受け取って、真正面から漆畑を見た。「・・・・ほら、お父さんと一緒に来てた、五歳ぐらいのおしゃまなお嬢さん」
「そうか。・・・・なるほど」
もしかしたら多歌子には前夫との間に子供がいて、その子を保育所にあずけて働いているのではないかとの彼の予想は外れた。
外れたことが好かったのか、悪かったのか、どちらかに傾くだけの感情は育っていない。多歌子の日常は、漆畑にとってまだ謎だらけだった。
「どうかしたんですか」
これといった理由もなく浮かない顔をする漆畑に、多歌子の方が怪訝そうに問い返した。
調理場に入っている弟夫婦の目からは死角になっていた。
意識したわけではないが、二人とも小声になっていた。
「実は多歌子さんを一度夕食に招待したいんだけど、時間を作ってもらえませんか」
「えっ、どうして?」照れたように微笑んだ。
「いや、本当は今夜にでもと思っているんだが、日頃のお礼がしたいんだ」
「まあ、うれしい。でも、今日はちょっと予定があって・・・・」多歌子は、苦しそうに言葉を濁した。
(やはり、もうひとつ仕事があるんだ)
多歌子について推測したことが、今度は当たっていそうな気がした。
「味楽」だけでは到底生活が成り立たないはずだから、掛け持ちするのは当たり前だろうと自分を納得させていた。
だから、素直に現状を教えてくれれば先へ進めるのだ。
しかし、そのことをズバリ問いただす勇気がない。
勇気がないから、遠まわしな手順を踏んで却って立ち往生することになる。
「じゃあ、いつでもいいから頭に入れといて・・・・」
日程は相手に委ねて、その場を離れた。
押しが弱いなと悔やみながら、子供時代から変わっていない自分の性格に苦い思いを重ねていた。
開店して三十分も過ぎると、いつも通り体力勝負の忙しさとなった。
丼飯と味噌汁と料理二品を載せた盆を、時には両手に持って客の前に軟着陸させる。
漆畑でさえ当初は腕の張りを覚えた配膳を、多歌子はたまに真似ることがある。
白い二の腕を客の目に晒して、筋肉の緊張を意識させる結果となるのを、どこか得意にしている気味もあった。
「あまり無理しなくていいよ」
「はい、大丈夫です。重そうな時は一つずつ運んでいますから・・・・」
漆畑が配膳時の粗相を心配していると受け取ったのか、そっけない返事が戻ってきた。
もしかしたら、夕食の誘いに対する反応が受け答えの中に含まれているのではないか。
気がかりは残ったが、多歌子がレジに張り付く時間帯になると、余計な心配をする自分がアホらしくなるほど彼女の表情は屈託なかった。
「あら、今日も来てくれたのね。うれしいわあ。帰りのおクルマ気をつけてね」
十二時半頃になると、多歌子のお愛想は全開だ。「・・・・昨日ご一緒だった方、奥様でしょう? あんまり美しいんで、妬けちゃうわ」
午後の一時が近くなると、昼休みのサラリーマンは仕事の再開を念頭につぎつぎと席を立つ。
漆畑が膳を下げ洗い場に回るころには、つり銭と共に手を挟まれたり腕に触られたりした客が、底可笑しいような表情を浮かべて帰っていく。
夜と昼とを間違えているんじゃないかと訝しみつつ、どの客も満更ではない反応を見せている。
そうしてリピーターになった男たちが、他人や仲間を意識しながら「・・・・いやあ、美味かったよ。鯵フライ、身がふっくらしていて、他所じゃ食えないね」と追従を始める。
褒められて苦笑するのもはばかれるが、漆畑は皿を洗う手を上にあげて客の目線を遮った。
客は客で、このような接待を従業員に許している店主に興味を持って、そっと視線を送ってくるのだ。
開店前に多歌子を食事に誘った当事者としては、特別に落ち着かない一日となった。
「お疲れさまでした・・・・」
着替えを済ませて店を後にする多歌子を、漆畑は店内で見送った。
細身の体だから、コーデュロイ・パンツがよく似合う。
七分のダウン・ジャケットをまとっていても、焼豚をギリギリ締め上げるような圧迫感は微塵もなかった。
(あーあ、俺ってどうしていつものように送ってやれないんだろう)
返事をもらう前から萎縮した態度を見せる男を、多歌子のような女はどう受け止めるのだろうか。
青い自転車で帰っていく後ろ姿を想像しながら、今からでも外まで駆け出して行きたい衝動に襲われ、売上げを計算する作業に身が入らなかった。
二日経って、多歌子から返事があった。客で混み合い始めた正午頃のことだった。
「実はわたし、市内のホールでフラダンスの講師をしているんです。・・・・七時には教室に入らなくてはいけないので、お茶ぐらいでしたら時間が取れますが・・・・」
「あ、そうですか。それでいいです。それで、いつ頃なら・・・・」
「あの、今日でもいいですか」
「もちろん、大丈夫です。それで、場所と時間は?」
漆畑は数日間頭上を覆っていた暗雲が取り払われたのを感じ、表情を明るくしていた。
慌ただしく伝えられた待ち合わせ場所は、「味楽」からそう遠くない小海線の中込駅前にある喫茶店だった。
今でこそ新幹線の佐久平駅に主役を奪われたが、昔からあった中込商店街は昭和の風情を残していて、住民に愛されて細々ながら生き延びてていた。
それに、市役所のある場所だから、漆畑もよく行くところである。
むかし映画のロケ地となった中込中学校の木造校舎は、放火によって焼け落ちたものの今でも人々の記憶の中で生き続けている。
そうした街を指定した多歌子の心の中に、どのような思いがあったのか。
詮索するまでもなく、午後四時に駅で待っていれば答えが出る。
その時刻は漆畑にとっても休憩時間だったし、上手くいけば弟には少し遅れるぐらいのことを言っておけば済みそうだった。
「俺ちょっと、午後から買い物に出かけるから・・・・」
「おお、何か欲しい物でも思いついたか」
「うん、ビデオの調子も悪いし、カメラもな・・・・」
曖昧な言い方だったが、弟は佐久平駅そばの電化製品の大型店を思い浮かべたはずだった。
この一帯には、新幹線の開通以来さまざまな娯楽施設や飲食店が展開している。
レンタルビデオ店やコミック中心の本屋、パチンコやスロットなどゲーム機に群がる男たちの新天地でもある。
腹が減れば、ラーメンでも焼肉でもピザでもなんでも食える。
クルマ社会に対応して発展しつつある場所だが、昔から愛されてきた旧市街との調和が無視されたままなのだ。
慣れているはずの市民にとっても、佐久はますますヘソを見つけづらい街になっていた。
実際この瞬間にも、漆原は弟が連想したはずの新興市街地とは正反対の場所を目指している。
中込という街は、漆畑にとって心理的に迷彩を施したような場所だ。
あるいは多歌子の方でも、無意識のうちに何かから身を隠そうとしてここを選んだのではないか。根拠はないがそう思った。
「やっぱり、クルマでいらっしゃたのね」
「うん、まずかったかな」
「いや、いいのよ。他に手段もないでしょうし・・・・」
多歌子は鷹揚に言って、近くのコンビニの駐車場に誘導した。
一人店内に入って何かの商品を買ってきたのは、喫茶店にいる時間を気兼ねなく過ごせるように、あらかじめ店員にことわってきたのだろうと思った。
案内されたのは、昭和の雰囲気を残した純喫茶店だった。
薄暗いカウンターの中に、七十歳を超していると思われる白髪のマスターがいて「いらっしゃい」と客を迎えた。
あからさまに視線を向けることをしないのは、長年の習性だったろうか。
「コーヒーでいいですか」
多歌子が漆畑に注文を確かめ、「私はこれがいいわ」と今日のお薦めと手書きされたマンデリンを指さした。
「じゃあ、僕もそれにしよう」
またも主体性のない行動をとった自分を打ち消すように、「すみません、マンデリンを二つお願いします」と声を一段高くした。
ケーキも頼もうかと訊くと、男が言いだしたことが可笑しいのか、多歌子は漆畑の腕をたたくように軽く触れた。
「この季節でもショートケーキあるかしら?」目が笑っている。
「一年中あるさ。ハウスだもの」
そうね、と相談がまとまって、今度は多歌子がマスターにオーダーした。
「はいよ」
返事をしつつも、視線はコーヒーメーカーに向いている。
抽出の一部始終を見届けないと、あたかも人生の一部を欠損したような後悔に囚われるかのようだ。
これも職人技の一種かと、漆畑はマスターの真摯さに影響を受けていた。
「今日は付き合ってくれて、ありがとう」
あらためて感謝の念を表した。「・・・・ほんと、きみが来てくれて助かっているよ」
「いつもそう言ってもらって、私の方こそ感謝しています」
日頃の玄人はだしの応対とは打って変わって、殊勝らしく恥じらって見せた。
漆畑はその時、多歌子の内側に少し触れたような気がした。
女の持つ多面性の一つかもしれないが、作為的な反応ではなく、にじみ出る真実の一端に行き当ったような手応えを感じた。
「ところで、多歌子さんはずっと一人で生活していく気ですか」
「あら、そんなこと考えたことないわ。毎日があわただしくて、必死というか、何というか」
「すみません、立ち入ったことをお聞きして。・・・・でも、今この機会に考えてください。バツイチの僕を支えてくれませんか」
漆畑は初めて正面から多歌子の目を覗き込んだ。
途端に多歌子の唇が歪み、目の中に涙が溢れた。
「ごめん、気に障っちゃったかな」
「いえ、そうじゃないんです。本当は嬉しくて堪らないんです。・・・・でも、ご好意をお受けすると、店長さんに迷惑がかかりそうで怖いんです」
多歌子が真剣な眼差しで漆畑を見返した。
「えっ?」
彼にとって不都合と思われることが、いくつか脳裏をよぎった。
弟夫婦への気兼ねか、あるいは世間体か。
しかし、それほど迷惑がかかるという深刻さは思い浮かばない。
(まさか、多額の借金に追われているとか。でも、それだったら、疾うに水商売に入っているだろうに・・・・)
多歌子の申告した通り、「味楽」のパートとフラダンスの講師をかけもちして生計を立てているとすれば、漆畑の身に及ぶ迷惑というものが理解できなかった。
(なんだろう・・・・)
一瞬だが、思考のつながりが途切れていた。
(おれ、店長じゃないんだけどなあ)
漆畑は気が抜けたのか、柔和な表情になった。「・・・・何が迷惑なのか、言ってごらんよ」
構えがなくなった漆畑の変化に、多歌子も安心したように心を解いた。
「わたし、別れた主人にずっと付きまとわれてきたんです」
前は東京の板橋に住んでいたのだが、ある日夫の暴力に耐えかねて身の回りの物を詰め込んだバッグ一つを持って逃げ出したのだという。
最初は川崎でネイルサロンに職を得たが、住民票を移したのがバレて勤務先まで探り出された。
「戻ってこないと殺す」
再び逃げた先が佐久市だった。
今度は住民票は移さず、古い女友達との同居という形でアパートを借りることができた。
フラダンス教室の講師の仕事も、その友達の斡旋によるものだった。
多歌子が習っていたことを覚えていて、上手く売り込んでくれたのだ。
しかし、どこへ逃げても見えない恐怖は迫って来る。
水商売には一度も足を踏み入れたことはないが、そうした女を装うことで身に迫る恐怖に立ち向かおうとしていた。
(私には用心棒もいるぞ。・・・・たくさんの男の人が、本気で守ってくれるんだぞ)
「味楽」には、女友達と一緒に一度来たことがあるのだという。
雇ってもらってからは、みんなが何度も通ってくる定食屋さんの温かさが嬉しかったらしい。
「だから、私ここで働けるだけで安心なんです。いつまでも置いてください」
ニュースでは聞いていたことだが、離婚してからも女を追い掛けまわす男の身勝手さに腹が立った。
「多歌子さん、今度は僕が守ってやる。二人で一緒に店を大きくしていこう」
佐久の「味楽」一号店はいずれ弟夫婦に譲り、別の場所で二号店を開業しようとビジョンを描くことができた。
長らくお蔵入りしていた板前の腕を磨き直し、多歌子と共に過去の人生を見返してやろうと決意を固めたのだった。
(おわり)
続編 ありがとうございます。
漆畑さん想いが伝えられてヽ(^o^)丿
通学カバンにラブレター・・・
懐かしい時代、携帯世代には味わえないドキドキ感ですねえ~
アドバイスを頂いて、よかったです。
思いもしなかった展開に、ぼくも悩んだり喜んだり・・・・。
これからも、よろしくお願いいたします。
続編をありがとうございます
気になって気になって
仕方ありませんでしたが
思いが伝わり
ハッピーエンドでスカーっとしました
漆畑の心の動きが
とても繊細に表現されていて
こちらまでドキドキが伝わってきましたよ
考えてみると『物語』というのは不思議なものです。
物語で提示された問題が解決していようがいまいが、感情的に何か読むものの胸に落ちるものがあって締めくくられない限り、心の据わりが悪く気になってしょうがない。
ノンフィクションなどとは違う物語独特の魔力のようなものなのでしょうね。
考えてみると『物語』というのは不思議なものです。
物語で提示された問題が解決していようがいまいが、感情的に何か読むものの胸に落ちるものがあって締めくくられない限り、心の据わりが悪く気になってしょうがない。
ノンフィクションなどとは違う物語独特の魔力のようなものなのでしょうね。
前編の半端な終わり方に声を上げていただき、お陰さまで少しは登場人物の座りがよくなった気がします。
また、望外の感想にも感謝申し上げます。
今回のことで、アドバイスの大切が身にしみました。
ずぼらな質なので、これからもよろしくお願いいたします。
超短編にこだわってきましたが、独善に終わっているケーースが少なくなかったのではと、反省しきりです。
テーマによっては、自分らしい切り口を見せられるかと、気合いを入れ直しています。
いろいろとご教示ありがとうございました。