野風没後一年を経た頃、木戸野風全句集を出そうかとの声が同人の間から起こりました。
『石心』主宰の私としてはもとより賛成で、亡くなった主人の魂魄を慰めるためにも、いずれは取りかかるつもりでおりましたが、ちょうど三年忌の記念事業として本腰を入れてやることにしました。
追悼号発行の際、それなりに手をかけた年譜を作成し、ホトトギス時代、『石心』時代の活躍を、それぞれ高名な俳人に偲んでもらってはおりました。
しかし、未整理の紀行文や日常の雑感を記したノートの類も多く、それらの遺稿は他の資料と共に長持に一杯仕舞いこんでおりました。
私は五人の同人から成る編集委員会を発足させ、それぞれに分担を定めて全句集発刊の準備に取りかかりました。
私自身は未発表の小文や書簡に照準を合わせ、場合によってはそれらをも含む個人全集に発展させることを考慮しながら、変色したインクの跡をたどっておりました。
整理を始めてまもなく、私は油紙で包んだ一冊の雑誌と、その頁の間にはさんだ和紙の封書を見出しました。
雑誌は昭和三十五年発行の俳句研究十月号で、ぱらりと開いた見開き二頁には、俳壇時の人と銘打って寿々木米若のインタビュー記事が載っておりました。
封書の表書きは木戸野風様、裏を返すと寿々木米若となっていて、記事に関連したやりとりとの推察はつきました。
・・・・拝復、このたびは思いがけず拙文に対しお褒めの言葉をいただき、ありがとうございました。
九州の炭鉱町の小屋で、見知らぬ青年から「先生は浪花節の米若で、ホトトギスに出ている俳句の米若とは違うんだろう」と言われて返答に窮したことが、二十年も昔のことなのに昨日のことのように鮮やかに思い出されるのです。
お手紙によれば貴兄もホトトギスに拠って俳句を学んだ由、小生の方が数年先輩とのことですが、腕前は貴兄の方が数段上ではないかと思っています。
さて、俳句のみならず、浪曲についてもご縁がある様子、なんとも不思議な巡り合わせです。
小生、お説の通り雲右衛門の評判に触発されて、八歳の頃より見よう見まねで赤穂義士を語ったのが、この道への始まりでした。
しかしながら、お尋ねの父君につきましては、小生の知るかぎり桃中軒の一門十数名の中に見当たらず、とは言え小生らよりは三十年も前のことゆえ正確を期して調べさせる所存です。
また、お母上に関して何か聞き知ったことはないかとのお問い合わせですが、父君の線からあるいは糸が手繰れることもあろうかと、事務当局の調査を待っておるところです。
いずれにせよ、貴兄のご両親のような先達があったればこそ、今の浪曲界の隆盛がもたらされたものと敬意を表しますと共に、母を思う貴兄の切々たる胸の内を察し、年甲斐もなく貰い泣きをした次第です。
向寒の折から、御身大切にして下さい。併せて更なる御健吟をお祈り致しております。
匆
寿々木米若の署名を確かめながら、野風がどれほど大事にこの手紙を扱ったか、分かるような気がしました。
嬉しくて、嬉しくて、しかし次の知らせが怖くて、おそらく幼児のように身を震わせていたと思うのです。
「・・・・もし此の水に契りて、神の御影やうつし初めけん」
あるいは、野風は水の面に母の顔を映そうとしたのではなかったか。
もうひとつ理解しきれなかった野風の領域に、いま一条の光が射し込んだような気がしました。
(おわり)
(2012/12/06より再掲)
最後の一行がまた、、、名人芸ですねー
読後感がなんともいい
愛情にあふれていて、、、読んでよかったなあーと。
たびたびの嬉しいコメントに、感激しています。
置かれた状況はあまり好転していませんが、光の射す場所を求めて前進していきます。
家族の結束が強まった感じで、これが希望の光です。
ありがとうございました。
ホトトギスの時代の俳人たちは、こんな雰囲気で俳句を詠んでいたんだろうなあ、と歴史の舞台を垣間見た様な気がしました。
それに時系列のストーリーというご指摘に、なるほどそういうことかと気づかされた次第です。
ホトトギスに限らず昔の俳人の雰囲気を感じ取っていただき、多少俳句に関わっていただけによけい嬉しいです。