桂木は、父親の転勤で三度転校している。
東北を振り出しに、関東、中部と移り住み、東京の大学に合格して初めて親元を離れた。その間、少年期を過ごし、最も心を許せる友人ができたのは、仙台の頃だった。
ずっと官舎暮らしで、父親の姿を見るのは朝だけというような生活だったから、友達と共有する時間が宝物のような価値を持っていた。アベちゃん、タカオ、モトムラ、ヨシキくん、次々と眼裏に浮かぶ同級生の顔が、みな彼に微笑みかけてきた。
(そういえば、親父と釣りに行ったことがあった)と、桂木は思った。
正確には、父親と、父親の部下と三人で、澄川というところへイワナを釣りに行ったのだ。長い時間、記憶の底に沈んでいた情景が、鮮やかに甦ってくる。稀な出来事だったから、余計に印象深く心に刻まれていたのだろう。
その日、小学生だった桂木は朝早く起こされ、眠りの河に半分頭を浸けたまま、迎えの乗用車の後部座席で揺られていた。
ときどき目覚めて窓の外を見ると、薄紫から碧緑へと色を変えていく空の下に、蔵王の山容が大きさを増していた。
ふらつきながらクルマを降りたとき、いつも父を役所に送り迎えする年配の運転手が、小学生の彼にまで恭しく頭を下げ、なにやら声をかけてくれた。今でも、くすぐったさの残る思い出だった。
後から思うと、あのときのクルマは公用車だったのだろうかと不安がよぎる。いくらおおらかな時代だったとはいえ、もしそうであったなら見咎める者もあったろう。そつのない父のことだから、非番の運転手をアルバイトで頼んで、別のクルマを使ったのだろうと勝手に納得した。
・・主人と打ち解けて会話を続ける訪問者に安心したのか、犬は再び腰を落として置物のようになった。
あまり声を発しない性質の犬らしく、向かいの公園に超然とした眼差しを放って、時の移ろいに同化しているふうにも見えた。
「らかん、といいましたね、この犬・・」
「そうですが」
「変わった名前ですね。ご主人がつけたのですか」
「はあ、最初は別の名でしたが、後からわたしが・・。実は、元はといえば友人が子犬のときから飼っていたんですが、事情あって、わたしのところに預けられたのです。その際、思い切って改名したんですわ」
説明に分かり難いところがあった。
「もしや、仏教の羅漢から」
なぜか、外れそうな気がした。
「ハハハ、よく言われますが、そうじゃないんですよ」
桂木の予感は当たった。訊くんじゃなかったと後悔した。
東北を振り出しに、関東、中部と移り住み、東京の大学に合格して初めて親元を離れた。その間、少年期を過ごし、最も心を許せる友人ができたのは、仙台の頃だった。
ずっと官舎暮らしで、父親の姿を見るのは朝だけというような生活だったから、友達と共有する時間が宝物のような価値を持っていた。アベちゃん、タカオ、モトムラ、ヨシキくん、次々と眼裏に浮かぶ同級生の顔が、みな彼に微笑みかけてきた。
(そういえば、親父と釣りに行ったことがあった)と、桂木は思った。
正確には、父親と、父親の部下と三人で、澄川というところへイワナを釣りに行ったのだ。長い時間、記憶の底に沈んでいた情景が、鮮やかに甦ってくる。稀な出来事だったから、余計に印象深く心に刻まれていたのだろう。
その日、小学生だった桂木は朝早く起こされ、眠りの河に半分頭を浸けたまま、迎えの乗用車の後部座席で揺られていた。
ときどき目覚めて窓の外を見ると、薄紫から碧緑へと色を変えていく空の下に、蔵王の山容が大きさを増していた。
ふらつきながらクルマを降りたとき、いつも父を役所に送り迎えする年配の運転手が、小学生の彼にまで恭しく頭を下げ、なにやら声をかけてくれた。今でも、くすぐったさの残る思い出だった。
後から思うと、あのときのクルマは公用車だったのだろうかと不安がよぎる。いくらおおらかな時代だったとはいえ、もしそうであったなら見咎める者もあったろう。そつのない父のことだから、非番の運転手をアルバイトで頼んで、別のクルマを使ったのだろうと勝手に納得した。
・・主人と打ち解けて会話を続ける訪問者に安心したのか、犬は再び腰を落として置物のようになった。
あまり声を発しない性質の犬らしく、向かいの公園に超然とした眼差しを放って、時の移ろいに同化しているふうにも見えた。
「らかん、といいましたね、この犬・・」
「そうですが」
「変わった名前ですね。ご主人がつけたのですか」
「はあ、最初は別の名でしたが、後からわたしが・・。実は、元はといえば友人が子犬のときから飼っていたんですが、事情あって、わたしのところに預けられたのです。その際、思い切って改名したんですわ」
説明に分かり難いところがあった。
「もしや、仏教の羅漢から」
なぜか、外れそうな気がした。
「ハハハ、よく言われますが、そうじゃないんですよ」
桂木の予感は当たった。訊くんじゃなかったと後悔した。
(続く)
(2006/01/06より再掲)
見事にやられました。「らかん」の答えが待ち遠しくなってしまいました。
犬の名前の由来は次回明らかになります。
お待たせしてすみません。