現在の山形県新庄市あたり、昔は出羽国最上と呼ばれた地域の中心部に、貝吹きの旦次という男がいた。
旦次は一帯を治める沼田(新庄)城主戸沢侯に抱えられた技能者で、法螺貝を吹く力量は右に出るものがなかった。
法螺貝といえば修験道とは切っても切れない道具の一つで、信仰のため、あるいは連絡の手段として日本中の山伏がひとしく携えているものである。
とはいえ、旦次の場合は貝吹きの技能が殿に評価されたものの、信仰とはあまり縁がなかったようだ。
城主戸沢侯が異例とも思える碌を与えて旦次を召抱えたのは、ただ貝吹きの力量が並外れて優れていたという理由による。
旦次の方も、「両刀は伊達に差すばかり、わが命は貝だ」と、芸一筋の心意気を示していた。
その心意気と入神の芸こそが、戸沢侯にとっても何よりの誇りであった。
ある年の夏、殿は東に三里ほどの山道をこえて、瀬見という温泉へ病み上がりの身を押して保養に出かけた。
もちろん旦次も、殿の命によりお供の一員に加えられた。
瀬見温泉というのは、源義経が東下り(流離の旅路)の途中で見出した名湯と伝えられ、分水嶺に源を発した瀬見川に沿った場所にある。
その湯は、処女の肌のように清らかで、碧瑠璃を薬研にかけたように美しかったと表現されている。
周りには山また山が縦横に重なり合って、湯壷には澄み切った山気が絶えることなく立ち籠めていた。
戸沢侯というのは、もともと常陸国の高萩城から沼田城へ移封された殿様で、この峻厳な地に畏怖の念を抱いていたかもしれない。
月山など出羽三山も遠望できる沼田城にあって、城下には往還する山伏の姿も見受けられたろうから、旦次の存在はことさら誇らしかったにちがいない。
殿様の湯治も終わって城下に戻ったあと、特に貝を吹く用事を仰せつかることもなく、旦次は暇を持て余していた。
そうしたある日、午後から何をするでもなく街道筋を逍遥していると、白衣の行者の一行が陽のあるうちにと城下を目指して急ぐのに行き逢った。
その道は仙台から山形へ抜ける羽州街道で、時代は異なっても様々な人や文物が運ばれた道であった。
それだけではない、遠い土地の噂や風の便りもこの道を通って伝えられた。
そのころ、山の彼方の仙台領の沿岸で、三尺あまりの大法螺貝が打ち揚げられた。
普段、漂着物に慣れた漁師ら村人たちも、曰くありげな貝を前にして少しばかり気味悪さを感じていた。
もう一度、海に戻してしまえ・・・・そう思う一方、むざむざ捨ててしまうには畏れ多いという気持ちもあって、村人たちはまず評議を凝らした。
そして、誰かこの貝を吹き込む者はあるまいか、といって尋ねてみたが誰も思い当たる人はいない。
とうとう、出羽の羽黒山に収めるより他に仕方あるまいという結論になった。
羽黒の大天狗なら、あるいは吹き込めるかもしれないと、相談の結果三十七日の精進別火の行を積ませて、わざわざ奉納の行者を仕立てたのであった。
この奉納の行者こそ、旦次が街道筋で出会った白衣の一行であった。
中央の一人が大切そうに背負った大貝は、白の大風呂敷に丁重に包まれていたものの、その魂は旦次の目を惹きつけずには置かなかった。
旦次はしばらく一行を見守っていたが、やがてスタスタとあとを追って急ぎだした。
そして半道も行かないうちに、路はもう谷間を離れて峠に差し掛かっていた。
旦次は片沿う流れの囁きにも、梢を渡る風にも耳を仮さず、西の山を染める夕陽にも、東の山に輝く夕映にも目をくれず、包みの中の大貝に引かれていった。
山を忘れ、山道を忘れ、殿様に仕える身すら忘れて、酔い痴れたように包みに付き従っていった。
行者たちは、陽のあるうちにと城下をめざして一心に歩を運ぶ。
夕暮れの山中は寂寞としていて、その静かさを破るものは貝を担いで行く行者たちと、貝に惹かれてついていく旦次の草鞋の音ばかりであった。
路はやがて七曲の急坂にかかった。
その頃の七曲は、老樹が道を挟んで昼でも暗いところであった。
ここへ来ると、山めぐりや峰入りで足を鍛えた行者たちも、息を入れずには進めないほど足取りが鈍ってきた。
そのときを見計らって、旦次はとうとう行者の中心人物と思われる一人に話しかけた。
「あなた方の背負っているものは大法螺貝とお見受けしたが、今生の願いとしてわたしに吹き込ましてはもらえまいか」
突然の申し出に、行者たちは初め嘲笑って相手にしなかったが、繰り返し懇望する旦次の熱意にほだされて、やむなく承諾した。
もとより、この大貝を吹くには、息を尽くし生命をかけての晴れの技だと思ったのであろう、旦次はしばし目をつぶって一心に神を念じた。
かくて、神を鎮め、息を詰めて、まず一声は吹き下げ、つづいて一段高く吹き上げると、たちまち地が咆えるがごとく、天の叫ぶがごとき声が山を圧して起こってきた。
その大地の底の底から起こって大空の絶頂まで貫き、世界の果てまでも充ち渡るような音、天地の力を人の心に染み込ませるような響き。
この深く、高く、力ある音に対しては、空行く雲も、谷行く水も、ひとしく足を止めて震えおののき、木魂山彦も感嘆の余韻を長く曳くかと思われた。
これを聴いた行者たちは魂を失って、これはきっと羽黒山の天狗が出迎えられたに相違ないと、息も継がずに走り通して逃げ帰ったとのことである。
その翌くる年のこと、旦次は風の便りに、相馬の方に四尺の貝があると聞き、落ち着いてはいられなくなった。
殿様に暇を乞うて行ってみると、噂通りの恐ろしい大法螺貝であった。
旦次は、そこでも人間業を超えた神秘の技を発揮して人びとを驚かしたが、吹き了えると貝を抱いたままうつ伏して起たなかった。
どうしたのだろうと訝しんで抱き起こしてみると、旦次は貝をくわえたまま息絶えていた。
そして大法螺貝の内側には、一面べっとりと赤い血糊が飛び散っていたという。
一芸に生き、一芸を極めるほどの者は、どの時代に生きても卓越した精神力を発揮するものである。
しかし、旦次の生きざまを見て思うのは、死を賭しても挑まなければならないほど人間を衝き動かす魔力が、貝の記憶の中にあったのではないか。
旦次ほどではないにしても、山伏が吹く法螺貝の音色に身体中が震えるのも、深山に共鳴する魂のようなものが、貝の内部に仕込まれているのではないか。
この話を聞くたびに、多くの人が神妙な心持ちになったとしても不思議ではないと思うのである。
(おわり)
<参考> 『日本伝説集』(五十嵐力著)より
窪庭さんの一連の伝説噺にはいつも日本語独特の定型を踏まえたリズム感があって快い。
まるで詩人がその時代に天下って時代の人になり切り自由自在に舞っているがごとくです。
今はもうそういう時代そのものと言っていいようなリズム感を表現に持ち込める文章家が少なくなりましたね。
大いに楽しませていただきました。
関心をお示しいただいた元の話は、五十嵐先生がかつて早稲田大学に在籍した学生らの協力を得て、各地に伝わる伝説等を採集したもののようです。
したがって、まとめられた話は概ね協力者の手になるものだそうです。
こうしてみると、語り伝えられた昔話の浸透力と共に、採集した人たちの表現力に負うところも多いと思われます。
それらを更に又借りしているわけで、できるだけ自分の表現に拓き直そうとしているものの、キモにあたる部分は採集者の表現を超えることはできません。
例えば、旦次が三尺の大法螺貝を吹く場面(息を詰めて、まず一声吹き下げ・・・・木魂山彦も感嘆の余韻を)など、当時の協力者のリズム感を大事にしました。
(知恵熱おやじ)さんの慧眼には、いつも敬服しております。
ありがとうございました。