(妖葉記)
薄暗い公園の横を通ると、薄暗い樹の間からガクアジサイの白い花が、あたりを窺うように顔を覗かせていた。
確かめると白いのはガクのほうで、そのガクに囲まれて小さな花がぶつぶつと虫のようにたかっていた。
もっともらしく観察はしたけれど、辰夫が気にかけたのはガクでも花でもなかった。
覗きこんだとたんにワーっと掌を広げたアジサイの葉っぱのほうだった。
辰夫は、正直たじろいだ。
その瞬間の驚きは、いったい何だったのだろう。
変哲もない葉っぱの放つ圧迫に、急に怯えたのは確かだ。
埋もれていた記憶が、いきなり地表に顔を出したような戸惑いだった。
辰夫は息苦しくなって、急ぎその場所を離れた。
散歩の途中であったにもかかわらず、近くのコンビニに飛び込んで普段は見向きもしなかった雪見大福を買った。
(ガクアジサイの葉に、どんなマジナイがかけられているのか)
太い葉脈がにゅうっと辰夫の目の前にせり出し、顔を撫でるように手を伸ばしてきた時の感覚がいつまでも残った。
店の前の駐車場で、バイクやクルマがひっきりなしに出入りしている。
どいつもこいつも自分のことに手いっぱいで、辰夫の変化に少しも注意を払わないのが忌々しかった。
(さっさと飛んで行け!)
辰夫はパッケージの蓋をめくって、白っぽい餅をほおばった。
すべすべした皮の中から、冷たく甘いアイスの味がこぼれ出た。
古い記憶を刺激するような、なんとも懐かしい取り合わせだった。
二つ目を口に入れて、コンビニのごみ箱にパッケージを捨てた。
もう散歩を続ける意欲はなく、宿題を与えられた学童のように、たらたらと足をひきずって帰路についた。
そもそも、どこに何があるかなどということは全く意識しないで家を出た。
行きあたりばったりに、今日はこの道を行ってみようかと、軽い気持ちで歩き出したのだ。
午後の陽ざしを避けて公園の裏手に回った途端、待ち構えていたような暗がりが現れた。
しかも暗がりの中で、ガクアジサイがそこだけ明かりを点したように浮かび上がった。
ガクの白さと粒々の花は、辰夫の注意を薄闇に向けさせるシグナルだったのだろうか。
さらには、大きな葉っぱに気づかせるために何者かが演出したのだろうか。
辰夫はもやもやした思いを抱いたまま、郊外のアパートにたどりついた。
外階段を上った二階の一室が、辰夫の棲みかだ。
夜の警備員として、派遣先の企業へ出勤する前に、食事と身支度をしておかなければならなかった。
アジサイの葉っぱが、いつまでも意味不明のまま心にひっかかっていた。
(まあ、いいか。そのうち思い出すだろう)
今夜の勤務スケジュールをもう一度確かめたのち、今では数少なくなった銭湯に行く準備をはじめた。
「いらっしゃいませ」
番台の女将とは週に何回も顔を合わせているのに、しゃくし定規の挨拶だけで決してくだけたそぶりを見せない。
辰夫もその方が気が楽で、女将の心がけを好意的に解釈していた。
どこでもそうだが、ちょっと馴れ馴れしくすると付けこんでくる客がいる。
それでなくても、ロッカー荒らしが横行している昨今だ。
つい先ごろも、脱衣場で怪しい動きをした女が、客に騒がれて通報されたと聞いている。
女将も愛想を振りまくより、そういった行為に神経を尖らせている様子だった。
だから、辰夫も会釈しただけで脱衣場に向かった。
男子の浴場は、時間が早いせいかいつもより空いていた。
シャワーをひねると、頭を狙って温水が噴き出してくる。
人数が多いときはシャワーの勢いも弱まるから、この日の洗い場は快適だった。
湯船にはワイン風呂の表示があった。
首までつかると、血行が良くなるらしい。
気持ちよく目をつぶっていると、腹の出た男がざんぶりと湯船に入ってきた。
飛沫が押し寄せてきて、危うく顔にかかりそうになった。
(おい、おっさん・・・・)
目を向けると、頭に手ぬぐいを載せて恍惚の表情をつくりだしている。
(いい気なもんだ)
藍染の日本手ぬぐいが、こんな時刻から銭湯に通える身分をあらわしている。
どうせ近くの商店主か、女に食わしてもらっているヤクザ者だろう。
同じ湯船を使っていても、これから夜勤に向かう辰夫とはえらい違いだ。
これまで顔を合わしたことはないが、おそらく常連なのだろう。
たまたま辰夫が普段より早く銭湯に来たから出会った些細な出来事なのだ。
一瞬、腹を立てそうになった自分が恥ずかしかった。
(まあ、人間生きてりゃいろんなことがあるさ)
ふと、薄暗がりの中のアジサイの白が目に浮かんだ。
その日を境に、辰夫は大きな葉っぱが気になりだした。
街路樹のプラタナスや、街中で見かけるイチジクの葉は、あまり気にならなかった。
やはり、アジサイが特別なのだろうか。
夢に紛れこんで、どこかから辰夫のほうへ舞い降りてくるその葉っぱが怖いのだ。
辰夫は、夜勤明けの朝方七時にアパートへ帰ってきて、牛乳と板チョコとウイスキーを胃に入れてすぐ眠りに就く。
夢はその眠りの中に現れるのだ。
ひらひらと舞って、辰夫の顔近くまで来るとすっと闇に紛れる。
何度も確かめようとしたのだが、それをアジサイの葉と特定することはできなかった。
午後一時ごろ目を覚まし、散歩ののち出勤前に住宅街の外れにある定食屋で食事をする。
レバー炒めか回鍋肉、たまに丼物を注文して目先を変える。
どれにも付いてくる漬物が、辰夫のお気に入りだった。
鯖や秋刀魚といった焼き魚もメニューにある。
だが、これまであまり注文したことがない。
朝まで持たせるエネルギーを得るために、どうしても肉類を選んでしまうのだ。
この日もニラレバ炒めを指名した。
「スタミナ抜群の、高知産のニラが入ったけど・・・・」
店主に水を向けられて、その気になったのだ。
ご飯の大盛りはいつものことで、レバーに絡むニラもたっぷりだ。
油を吸ったニラは、緑色を濃くして身体によさそうだった。
(アジサイの葉は、食いたくないミドリをしているからな)
脈絡のない連想が彼の脳裏をよぎる。
アジサイには、気になる何かが潜んでいる。
いまだ正体ははっきりしないが、徐々にマジナイの輪郭が視えてきそうな気がしていた。
「ごちそうさま・・・・」
軽く手を合わせてレジに向かう。
店主が調理台の端まで移動して、代金を受け取る。
「へい、行ってらっしゃい」
店主に送りだされて、最寄り駅まで歩きはじめた。
勤務先は郊外のスーパーマーケットである。
夜の十二時近くまで営業の締めがつづき、翌朝五時半には早番の従業員が出勤してくるから、無人の時間帯はそう多くない。
辰夫の勤務は夜の十時から翌朝六時までで、これまで三年間たいしたトラブルもなく勤めあげてきた。
売り場責任者がシャッターを閉めて帰宅すると、それからが辰夫の仕事である。
最低のルックスに落とした照明の下、各所の出入口を回って施錠の状況を点検する。
建物の北側にある冷凍冷蔵食品の陳列ケースから、わずかにモーター音が響いてくる。
「異常なし!」
二階の事務所へ向かう階段の踊り場で、辰夫は空調の具合を確認する。
季節によるが、食品の放つさまざまな匂いが入り混じって辰夫の鼻を刺激することがある。
ちょうど今頃、本格的な夏に移る前の一時期、排気し切れない空気が二階まで流れてくることがあった。
ボイラー免許の資格に挑戦中の辰夫であるが、畑違いの機器とはいえいちいちチェックしなくても鼻で分かった。
乾いた匂いが最良の室内状況をあらわしている。
今夜は、施設の機嫌は上々だった。
(よしよし)
満足げに見回して、残りの照明スイッチを切った。
彼の巡回してきたフロアを眠りに就かせる瞬間だ。
出口を示す緑の表示灯が、人型を浮かび上がらせる。
いよいよ三つの人型と人間一人が目配せを交わす警備体制となっていた。
強力なビームを発する懐中電灯を手に持ち、二階の一角にある事務所に近づく。
辰夫は外から内部の音を点検し、光の焦点を絞って扉がロックされていることを確かめる。
中には金庫室もあり、幹部役職者のデスクもある。
日々の売上金は、銀行が毎日のように回収していくのだが、休日との兼ね合いで大金が金庫に保管され翌週まで持ち越されることがある。
休日二日目のこの夜は、扉の奥で大型金庫が緊張している状況かもしれなかった。
遠く近く懐中電灯の輪を投げかけながら、階下の警備員詰め所に戻る。
堅いソファと椅子が一脚、コンクリートの床に投げ出されている。
ここには警備会社につながるホットラインも設置されていて、いざというときの備えは厚いほうだった。
それというのも、八王子では帰りがけの女子アルバイト店員が殺されたことがあったし、都内でも強盗殺人といった被害が後を絶たなかった。
その点この店の経営者は、時代の変化によく対応していた。
警備会社が十分以内に駆けつけるといわれるなか、辰夫のような警備の人間を雇って二重に備えているのだ。
都心の宝飾店でさえ、思いがけない手段で高価な宝石や高級腕時計などを強奪される世の中だ。
辰夫も油断しないように、時間をおいて二度巡回した。
時刻は三時を回ったころだった。
裏手の道を、重い響きのトラックが通過していったような気がした。
少し眠気を感じていた彼は、ハッとして外の気配に聞き耳を立てた。
通過していったのではなく、何かの気配がとどまっている気がした。
(何だろう?)
内か外か、起ち上がって確かめようとした。
その瞬間、建物を揺るがす振動が走った。
カミナリのような音がして、理不尽な事態が進行しようとしていた。
辰夫がスーパーマーケットの裏手に回ってみると、普段は買い物客の駐車スペースに充てられている場所に、クレーンを積んだトラックが停まっている。
しかも、いままさに金庫を設置してある事務所を背後から壊そうとしているのだ。
二度目の衝撃が建物を揺るがす。
明らかにクレーンを使って、金庫ごと盗み出す計画なのだ。
(ああ~ッ)
無防備に走り出した辰夫が、懐中電灯でクレーンのオペレーターを照らし出した瞬間、横の闇からいきなり棒状のもので殴られた。
コンクリートの床に頭を打ち付け、失神しそうになった。
かろうじて意識を保ったのは、責任感からだったろう。
自動的に警備会社への緊急警報が発信されたであろうが、辰夫自身もホットラインで助けを求めるべきだったのだ。
ウウーッ、ウウーッと呻いていると、顔の上に緑の葉っぱに似たものを被せられた。
同時に頸部も圧迫されている。
飛び出しそうな目に、白い葉脈が視えた。
(ああ、これだったのか)
しきりに過去を探っていた行為は、見当違いだったのだ。
うすうす幼児期にこうむった虐待の痕跡を探っていたのだが、そうではなかったようだ。
記憶の層に埋もれて、うずうずともがいていたものではなかった。
アジサイの葉に懸けられたマジナイは、先々への警鐘だったのか。
辰夫は鼻と口を押さえられながら、息苦しさに身体を硬直させた。
辰夫自身が、もう助かるまいと見放しかけていた。
ベロを出し、筋肉が弛緩したのを見定めて、暴漢は離れた。
気絶した男にいつまでも関わっている暇はなかったのだろう。
アジサイの葉が、ふわふわと浮いていく。
これも死の道中の一コマなのだろうか。
本当は幼児期の記憶かと怯えていた葉っぱへの思いが、闇の中に溶けていった。
(よかったあ・・・・)
もし赤子の鼻を塞ごうとしたのら、いま殺されかけているより辛いことだった。
それにしても、ガクアジサイの葉に掌紋を意識した罪の深さはどうしたものだろう。
この事件によって、人生の痕跡まで解消されたのだろうかといぶかしんだ。
(おわり)
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この大きな葉っぱが影に日なたに現れつつ、奇怪な物語が進行していく。
その手法は、かなり凝っているようで、しかもお終いには恐ろしい殺人的な場面で終息する。
それが読む者をどんどん引き込んでいく。
そんなストーリーを編み出す手腕には恐れ入りました。
なお、余計なことですが、話の出だしにでもガクアジサイのリアルな画像があると、いっそうこの小説への興味を倍加させるでしょう。
そんな画像は、ウィキペディアの植物欄からでも簡単に拝借できるはずです。
その中で興味を持ったのが、「アジサイの葉っぱ」を怖がるというお方。
何が原因なのか理由は明らかにされませんでしたが、たいへん特異な事象であることは確かです。
小生いまだにわかりませんので、教えていただければ幸いです。