隆也は向かいの10円麻雀と書いてある看板をぼんやり見ていた。
彼の年齢は六十二歳、いわゆる団塊の世代と呼ばれる年代に属していた。
長年勤めた国家公務員を定年退職し、その後ニ年間の外郭団体勤務も先月末で満了となったところだった。
(新宿へ行ってみよう)
何かと厳格さを問われる身分から解放されて、心が軽くなるのを感じていた。
緊張が緩んだこともあり、漠然とした期待に引き寄せられるようにミラノ座前の広場に来ていた。
西武新宿線の野方に住んでいる彼は、休みの日の愉しみといえば将棋のテレビ対局にかじりつくか、新宿で映画を観ることぐらいだった。
二度ほどコマ劇場で歌謡ショーを見たことがあったが、それらは田舎から出てきた母親を喜ばせるためのもので、彼の趣味というわけではなかった。
最初に母親が上京したとき、大通りに面した「すゞや」という洋食屋で、たくさんのメニューの中からとんかつ茶づけを注文した。
母親が美味しかったとしみじみありがたがる姿が、今でも記憶に残っている。
ほぼあの時の母親の年齢に近づいてきて、彼は今更ながら歳月の速さを実感した。
懐かしいといえば懐かしいが、思い出にすがって生きるほどの年齢ではいない。
再び10円麻雀の看板に目をやったとき、看板の影に隠れるようにしてこちらを見ている人影に気がついた。
「おっ?」
普段着の主婦を思わせる、萌黄色の春物カーディガンとベージュのスカートを身に着けた女だった。
歌舞伎町シネシティ広場付近の昼下がりである。
こんな時刻に、家庭の主婦が何をしているのだろう?
公務員として勤続四十年の長きにわたって刷り込まれた実直さ故に、彼は昼間の歌舞伎町の実態をそれほど深く知ることがなかった。
と、何気なく歩き出した彼を射程に入れたかのように、女は小走りに近寄ってきた。
「すみません。お暇あります?」
「えっ、それほどは・・・・」
彼はひとまず警戒気味に女を見た。
「わたし病人抱えてて、お金が欲しいの」
さすがに、「来たな・・・・」と思った。
ほんとに素人の主婦なのか、それともヒモ付きの玄人なのか、彼はビルの陰に視線を走らせた。
彼らを監視する男の影は見当たらなかった。
「お茶ぐらいなら、行きますか」
確信があるわけではないが、このような時にはひと呼吸入れるのがベストだろうと頭をめぐらせた。
女がうなずくのを確かめて、彼は半年前に行ったことのある喫茶店に向かった。
そこは西武新宿駅の横を走る車道に面していて、退色した日除けを張り出した店だった。
駅の改札口に近い関係からか、乗降客がつかのま時間を潰して行くのに利用されていた。
人と待ち合わせしたり、ゆったりと対面して商談をするといった喫茶店なら街中にいくらでもある。
だが、ここではみんな落ち着かない表情を浮かべて、自分の目的をもう一度確かめ直すといった客が多かった。
売春を持ちかける家庭の主婦と、目標を見失った定年過ぎの元国家公務員の交渉の場にはぴったりだったのかもしれない。
「ゆっくりできなくて悪いね」
隆也ははじめて正面から女の顔を見た。
「いえ、すみません」
女は隆也の視線を避けるように目を伏せた。
細く眉を引いた女は、かすかにファンデーションの匂いがした。
額には、化粧で隠しきれない皺が夏型の等圧線を描いていた。
年の頃は四十ぐらいだろうか、やや受け口の唇が紅く光っている。
それぞれ注文したコーヒーと紅茶を一口二口すすったあと、ふたりの間に沈黙が流れた。
「それで、いくら差し上げればいいですか」
瞬間、まぶたが動き、女が上目遣いに隆也を見た。
「ホテル代とニ万円です」
隆也は少し冷めかけたコーヒーを、一気に飲み干した。
「・・・・それじゃ、行きますか」
金額を言わせた以上、後には引けない気がした。
団塊とよばれる世代の最後尾に属する彼らには、激しい競争にさらされて生きてきた逞しさがある。
その一方で、急速に潤ってきた経済の発展によって並々ならぬ恩恵を受けてきた。
マカロニ・ウェスタンの非情さに惹かれる一方、ヤクザ映画の侠気にも憧れを持つという二面性を持っている。
学生運動に刺激され、しかし一歩退いてノンポリを極め込んだ男達には、社会に対する多少の後ろめたさが拭いきれていなかった。
隆也もそうした仲間の一人である。
寝るにしろ寝ないにしろ、目の前の主婦とホテルに行くことになるだろうと、自分の心の内を推し量った。
病身の夫のために自分を犠牲にするという女を目前にして、多少の手助けをしてやりたいと心を動かされていたのである。
定宿のホテルへ向かって歩き出した主婦に、隆也は考え抜いた提案をした。
「ぼくは慣れたところしか行きたくないんだ。千駄ヶ谷に静かなところがあるんで、付き合ってくれないかな」
女は一瞬たじろいだように隆也を見上げた。「・・・・どうやって行くの?」
「タクシーを拾うから」
「わたし、あんまり時間がないのよ。夕食の準備をしなくちゃならないの・・・・」
「それまでには間に合わせますよ」
隆也は自分の意思で押し切った。
歌舞伎町というフィールドから離れるかどうかで、主婦の素性を確かめられると思ったのだった。
「怖いところへ連れ込まないでね」
女は覚悟を決めたように隆也のことばに従った。
鳩森神社の裏手に、見覚えのある旅館があった。
彼が若いころ頻繁に通っていた将棋会館の近くだった。
一般道場で、現役時代の林葉直子の姿を見た時のトキメキのようなものが急に思い出された。
「ほら、落ち着いたところだろう?」
昼下がりの時間帯にもかかわらず、林の中の建物は影の中に紛れていた。
受付で2時間の休憩を頼み、やや高めと思われる料金を支払った。
女とともにシャワー室に入り、恥じらいを見せる女の背中を流してやった。
「こんなの初めて・・・・」
無防備な態勢になることは、本能的に避けてきたようだ。
「ぼくも初めてだよ。出来るかどうかわからなかったけど、これでテスト合格だな」
隆也は元気になった下腹部を隠そうともせず、今度は女に主導権を渡した。
液体ソープを振りかけたタオルで、腕からふくらはぎまで洗われた。
シャワーで念入りに流してくれる女に、隆也は新婚当時のアパート生活を思い出していた。
駅からバスで二十分もかかったが、武蔵野の雑木林を切り開いて建てられたバス・トイレ付きの物件だった。
まだ互いの体が珍しくて、玩具で遊ぶようにそれぞれのパーツを確かめ合った。
「あなたの肩甲骨って、豹みたいに逞しいのね」
「俺がヒョウだったころ、おまえはアラレだった。わっかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」
「なによ、それ。・・・・だれかの真似でしょう」
妻は面白がって背中を叩いた。
松鶴家千とせが流行っていたころのことだ。
他愛ないことが、幸せの実感につながっていた。
ところが今では、そのような思い出は縄文時代の遺物と同じだった。
妻は古びた土器を見るような目で彼を眺め、子育てから解放された主婦仲間とつるんで勝手に海外旅行を繰り返していた。
「・・・・失礼ですけど、旦那さんの病気って何なのですか」
「腎臓です。週にニ回は透析に連れて行かないと・・・・」
そうか、そんな亭主と比べれば俺なんか優等生のはずなのにと、あらためて妻への不満がこみ上げた。
「あなた、健気だねぇ」
女に同情の声をかけながら、隆也は背後からシャワーを浴びていた身体を、くるりと半回転させた。
豹に喩えられたころの感覚が、全身に甦った。
「俺はケモノになったぞ」
「えっ?」
驚いたものの、隆也の意図を察してすぐに緊張を解いた。
「きょうは新婚妻を演じてくれませんか」
隆也の要求に、女が笑った。
「コスプレね」
衣装なしの変身だった。
肩を並べて連れ込み旅館の門を出たところで、背後から男が近づいてきた。
「ユリコ、おまえ掟破りをしたらどうなるか知ってるよな」
女とのやり取りで、ほぼ主婦のアルバイトと思い込んでいた隆也は、自分の見通しの甘さに青ざめていた。
横目でユリコと呼ばれた女の方を確かめると、彼女自身も意外だったのか表情を強ばらせていた。
「お客さんが、あのホテルじゃ嫌と言うんだから仕方ないでしょ?」
ふてくされた様子で、ヒモの男に抗弁した。
「そうかい、オプションというわけだな。じゃあ、お客さんには出張料金払ってもらうしかないね」
それに歌舞伎町エリア内通常ニ時間の枠を超えたので、超過料金も加算されるという。
合計十万円を要求された。
女にはすでに三万円を渡してある。
財布に入れてあった五万円は、ほぼ出払ったあとだ。
「ちょっと、ここじゃみっともないんで、あそこで話をしましょうか」
隆也は、陽の翳った鳩森神社の境内を指さした。
ヒモの男は、慣れない場所に誘導されて戸惑った表情をした。
「ところで、あなたもグルだったんですか」
隆也は一番訊きたかったことを女に確かめた。
「いえ、私だってここまで付けられるなんて・・・・」
後から報告すれば済むと思ったので、と言い訳した。
「そうですか、わかりました。あいにく今は持ち合わせがないんで、今度ということにしてもらえませんか」
「そうはいかねえよ」
ヒモの男は、一応凄んで見せた。
凄んだことで、かえって未成熟な男の頼りなさを露呈した。
「じゃ、ここで身ぐるみ剥ぎますか。腕時計も大した値打ちはないし、金目のものは何も持っていませんよ」
脅しをかける位置にいれば強いが、あやふやな立場に立たされると綻びを見せるのがこの手の男だった。
隆也はオタオタしだした二十代後半の男に、内心笑いを噛み殺していた。
「来週の金曜日に、あの喫茶店で会いましょう。ユリコさん、いいですね?」
ヒモの男は疑い深そうに隆也を見たが、金づるを完全に断ってしまうわけにもいかず、チェッと舌打ちをして黙り込んだ。
「さあ、タクシー代だけは残ってますから、新宿までお送りしましょう」
隆也は、ちょうど赤坂方面から登ってきた空車を止め、助手席に乗り込んだ。
後部座席に、ヒモと女が乗り込むのを見届けて、妙に新鮮な気分が湧くのを意識した。
(こいつらと、うだうだ拘わり合いながら、ハナをあかしてやろう)
知能なら負けないという自信があった。
いずれユリコと直接交渉できるように仕組み、チンピラを出し抜いてやろうと目論んでいた。
だが、ゴールデン街まで乗り入れたタクシーが三人を降ろして立ち去ると、ヒモと思われる男が態度を豹変させた。
「お客さん、元締めが挨拶をしたいというので、ちょっと顔を貸してくれませんか」
とっさに逃げようと踵を返したときには、配下の一人らしい黒服の男が寄ってきて隆也の腕を捉えていた。
ちょっと風向きが好くなると、都合のいいシチュエーションを思い描いてしまう。
お人好しというのか、わざわざ自分から罠にはまる結果となった。
この分では、女も無傷では済みそうにない。
薄暗い事務所に引き立てられながら、隆也は惨めな初老の男をやっと正視した。
(バカな奴だ)
大した知恵も使わず、時の勢いだけで乗り切ってきた世代の弱点が、図らずも現れた瞬間だった。
(つづく)
なんだか微妙なリアリテイもあって・・・まさか経験したお話じゃないですよね。
でも、エッこんなところで中途半端に終わっちゃうの?
本当は読者としてはここからこそがどうなるのか知りたい美味しいポイントなんだけれあー。
つづきをお願いしますよ。
なんか放り出されたような気分になるんだもん。よろしく!
テーマ的には、一応終わりと思っていたのですが・・・・。
でも、興味のポイントといわれると、「なるほどそうなのか」と納得できます。
『定食屋の女』と同じパターンですね。
ぼくの手に負えない気がしますが、「つづき」にするしかありませんね。
しばらく時間を頂きます。
首を長くして待っていますよ!!!
楽しみ―
『定食屋の女』はハッピーエンドでしたが
今度はどうなるのでしょうか?
わくわくしながら拝読させていただきました
場所があまり知らないところですが
危ない匂いがプンプンして
興味深々でした(^O^)
『豹のエチュード』2
第二部をよろしくお願いいたします
いつもありがとうございます
どうなるか、これから考えます。
関心を持っていただき、ありがとうございました。