狭い階段を襟首から吊るされるような形で引き上げられた。
コットン生地のブルゾンが、まるで拘束衣のように体の自由を奪っていた。
偶然そうなったのか、それとも喧嘩慣れした彼らの技の一つなのか、二本の腕が後ろにまわされて固定されたような束縛感だった。
隆也に恐怖心がないわけではない。
しかし、ブルゾンに自由を奪われている感覚が、間抜けと言おうか冷笑に値する出来事に思われた。
現役時代には、検察事務官の一人として検察庁の業務の一端をになってきた。
検察官とともに取り調べの実務に当たったり、実体的真実の立証や適正な公判手続の確保を全面的にサポートするというのが任務だ。
取調室の一隅で、検察官の取り調べに立ち会ったことも数知れない。
後には矯正局に所属して、受刑者の自立に寄与する仕事に邁進した。
年に一度、受刑者がつくった家具や木工品などさまざまな製品を、格安の値段で一般に売り出す催しがある。
それらの会場選びから陳列まで取り仕切り、事前の広報や当日の来場者案内までやってきた。
司法試験を突破して検事になった同期の友人をうらやみながら、鬱々と、しかし大過なく全うした公務員生活だった。
あの頃の精神的な葛藤と比べれば、肉体的に拘束を受けている現在の状況はほとんどコントのようだ。
自分が陥っている窮地がどの程度の窮地なのか、彼にはなかなか測りきれていないところがあった。
黄門様の印籠をかざせば簡単に屈服させられる気もしたし、逆にとことん追い込まれる危険性も予感された。
階段を上りきったところに腰の高さの手すりがめぐらされ、左手の壁との間に同じ高さの開き戸が設置されていた。
普段は内側に開けたままストッパーで固定しているが、閉じてしまえば一つの空間が作り出される。
老人医療ホームの隔離スペースに似て、いったん閉じ込められると自分の意志ではなかなか脱出できない構造になっていた。
とりあえず、隆也は手前に置かれた革製の長椅子に座らされた。
目の前には、デコラ張りの白いテーブルを挟んで大きな衝立が置かれていた。
「先生、お客さんが借用書を入れたいそうなのでよろしくお願いします」
「あいや・・・・」
ギシギシと椅子を引く音が響き、つづいて衝立の磨りガラスの裏で影が動いた。
しゃがれてはいるが柔らかい音感を伴った掛け声が、隆也の気持ちを落ち着かせた。
隆也の脇に突っ立つ粗暴なヒモ役と違って、姿こそ見えないが年配者の気配を感じて、根拠のない安心感を抱いたのだった。
「なんぼの手形や?」
衝立の裏から、しゃがれ声の男がひょいと顔をのぞかせた。
連れ込まれたカモの品定めをするつもりだったのだろう。
「おっ?」
「あっ・・・・」
どちらがどちらの声かわからないほど重なり合って、空気が張りつめた。
隆也は一瞬目にした胡桃のような風貌をした老人の残影を追って、磨りガラスを凝視した。
(あれは・・・・)
隆也が任官して配属されたとき、いろいろと指導を受けた大先輩とも言うべき検察官に違いなかった。
その先輩の下で、彼も検察事務官として裁判関係の書類を整え、犯人の取り調べにも補助的役割を果たした。
それでも交流があったのは5、6年のことだった。
庁内の異動で隆也の所属が変わったことと、魁偉な風貌の先輩が退官して弁護士事務所を開くという経緯があり、いつしか関わりが薄れていったのだ。
弁護士になった元検察官のうわさを再び聞いたのは、最初の出会いから30年も経ったころだった。
依頼を受けた資産家の遺産処理に絡んで、業務上横領事件を起こしたのだ。
もちろん新聞紙上でも報道されたし、庁内でも話題になった。
弁護士資格を取り消されるだろうと言われ、その後名前を聞くこともなくなった。
「ヤスダ、そちらの方は迷って歌舞伎町に来られたのだろう。怪我のないようにお帰りいただきなさい」
「へっ?」
ヒモ役の男がびっくりしたような顔をした。
そしてすぐに隆也をうながし、階段を先に降り始めた。
ヤスダと呼ばれた男は、腑に落ちない表情を浮かべたままゴールデン街の路上に出た。
隆也もまた、憮然とした顔を午後の日差しに晒していた。
まさに晴天の霹靂だった。
あの先輩が・・・・。
権威を失った弁護士の落ち行く先として考えられないことではないが、あくまでもお話の中のことと思っていた。
それが現実だったとは。
しかも、売春の客としてトラブルに巻き込まれた隆也との奇跡的遭遇だった。
それにしても、皮肉なめぐり合わせだった。
日陰の仕事に手を染めている先輩と、人目をはばかる享楽の買い手となった後輩が、ともに法曹に携わってきた人間だったとは・・・・。
(人間の本性とは、こんなものか)
ことさら驚くでもなく、隆也は己の内面を見つめていた。
多くの同僚たちは、つつがなく公務員生活を勤め上げ、まずまずの退職金を手にして退官していった。
歌舞伎町という極めて暗示的な場所に引き寄せられたふたりと違って、本性を見せることなく生涯を終えるかも知れない。
しかし、国家公務員として仮面をかぶったまま一生を終えることにどんな意味があるのだろう。
隆也は足元に目を落としながら区役所通りに出て、そこから青梅街道を右折して西武新宿駅に向かった。
無意識のうちに歌舞伎町エリアを迂回していた。
ユリコのことも、頭から飛んでいた。
(いや、気づかなかった奴は幸せなのさ)
まだ本性にこだわっていた。
いつになく内省的な自分に、新しい目覚めが訪れたような気になっていた。
駅の改札を通り、ホームの端から各駅停車の電光掲示板を確かめ、学生や買い物客に混じって車両に乗り込んだ。
席はいくつか空いていたが、隆也は入口近くの窓際に立って目の前に立ちはだかる壁を見上げていた。
胡桃のような顔をした先輩は、いま何を思っているのだろうか。
おそらく、闇社会で顧問のような立場をになっているのだろうが、動じることはないだろう。
隆也に出遭ったことで驚きはしたが、脅威を感じることはなかったはずだ。
キャリアの質も量も、隆也とはかけ離れているのだ。
あえて想像すれば、運命という不可知のものの底知れなさに感じ入っているかもしれない。
そのために隆也は救われた、と認めざるを得なかった。
情けない結末になんの変わりもないが、とにかくあの先輩に助けられたのだ。
各駅停車の電車が雑多な町並みを映して通り過ぎていく間に、彼は空想の会話を交わしていた。
(なに、名前と住所を書けってか? 自分に対してだって守秘義務ってものがあるんだよ)
(だから、十万円は払うと言ってるだろう。ただし、わしの個人情報は教えないぞ)
(そうかい、キミはわしを殴りたいのか。万が一血が出るようなことがあったら、わしの血の一滴は何万ポンドもするぞ)
(いいか、先生なんて崇めても、上の者は自分じゃ危ない橋など渡らんものだ)
(キミは病気の亭主を助けようという女性に同情しないのか。たまには誰かに慈悲をかけようという気にならないのか)
(一発、ボディーに打ち込むってか。そりゃあ頭がいい、それなら血も流さないし、キミのメンツも立とうというもんだ)
(わしは今後もユリコさんを買いつづける。売春のどこが悪いんだ? 買春のどこが悪いんだ!)
野方~、野方~。
妄想の会話にはまりこんでいるうちに、電車は隆也の降りるべきホームに到着していた。
あわてて降りようとした途端に、ねずみ色の塗装をほどこした木製の柱が目に飛び込んできた。
隆也は一瞬、足がすくんだ。
あまりにも旧態依然のままのホームに、嫌悪を覚えたのだ。
(わしがこのまま家に帰らなかったら、どうなるだろう?)
熟年離婚は女が切り出すものと思われているが、亭主から言い渡すケースだってないとは言えまい・・・・。
昂ぶる感情を遮断するように、電車の扉が閉まった。
(よし、このまま鷺ノ宮まで行き、準急に乗り換えて行けるところまで行ってみよう)
夕暮れに向かって、未知なる郊外を目指す。
今は、ひたすら歌舞伎町と正反対の方向に自分の身を運びたいのかもしれなかった。
(おわり)
まさかね、先輩検事だった人がホテトル業者の守り神になっていたとは。
楽しめましたよ。
ありがとう!
今回も勉強させていただきました。
連休のなかの二日間ぐらい、ちょっと出かけてきます。
お天気はよさそうですね。
では、おやすみなさい。
ドキドキはらはらそして
思いもかけない展開にこちらも一緒に
夢から覚めたような気分になりました(^O^)
最後の
『熟年離婚は女が切り出すものと思われているが、亭主から言い渡すケースだってないとは言えまい・・・・。』
豹の背中に哀愁を見たような気になりました
安易に続きをお願いして
大変悩まれたのではないかと思いましたが
とても面白く拝読させてぃただきました
ありがとうございます
いつも悩んでいるのですが、そのわりには成り行きに任せてしまうズボラな性格なのかもしれません。
ともあれ一応終わってホッとしています。
これからも、よろしくお願いいたします。