喫茶店での会話は、戦勝祝いのように沸騰した。
おれは、いきり立つ若者たちの言葉を、ボックス席の底で他人ごとのように聞き流していた。
おれの頭の中に、労働基準監督署の存在が浮かんだ。どれほどの力を与えてくれるものか見当もつかなかったが、諦めの思いの中で微かに点滅しはじめた希望のようなものを、若者たちに示した。
反応は、予想を超えた。
おれは、おれを称える若者たちの言葉に心をくすぐられたが、一方で醒めた思いが胸の中の火を覆うのにも気が付いていた。
それまでの経験から、社会というものが一筋縄ではいかないことを実感していたからだろう。安易に期待を抱くことの怖さを反芻していた。
「まやかしの社名を騙った社員募集です」
「おれたちは被害をうけました」
と、口々に申し立てたところで、どれほどの罪を問えるものか。
翌日、おれたちは出社してマンダ書院専務の登場を待ったが、案の定雲隠れして姿を見せることはなかった。
「それならば、昨日までの賃金を清算してほしい」
と要求するのが、おれたちの作戦だった。
応じなければ、役所に駆け込む口実が一つ増える。
事務員の答えは、給料清算日までは払えないというものだった。
こうした引き延ばしは、おれたちの立場を弱くするものだ。この先いつまで団結していられるか、時間との闘いに勝てる自信はなかった。
やむなく行動を起こすことにした。前もって調べておいた労働基準監督署の電話番号にダイアルして、これから相談にいきたいと伝えた。
ぞろぞろと連なって現れたおれたちを見て、担当官は一瞬迷惑そうに顔をしかめた。すぐに思い直して表情をととのえたが、太い黒縁メガネの中の瞳は嘘をつけずに、いつまでも冷たい光を放っていた。
「椅子が二つだけしかありませんので、代表者二名だけお入りください」
おれは、とっさに一番気に入っているイノウエを指名し、ほかの若者たちがブース後方のベンチに退くのを待った。
担当官は、手元の罫紙にメモを取りながら、おれたちの訴えを聞いた。そして、いまのところ深刻な問題との認識はできないが、マンダ書院に社員募集のいきさつを聞いてみて、非があれば正すように指導すると答えた。
「給料の不払い等があれば、別ですがね・・」
そうなれば対応も違ってくる、と言外に示していた。
後日、連絡をするかもしれないということで、おれはアパートの住所と電話番号を書かされた。
「これは大家さんの電話で、この番号に掛けると呼び出してくれるのです」
おれは説明した。ふだん気にも留めていなかったが、あらたまった場所で生活レベルを確認させられるのは、愉快なことではなかった。
翌日も翌々日も、おれたちはマンダ書院に通った。無断欠勤だなどと難癖をつけられるのを防ぐためだ。そうして半月に一度の給料清算日まであと数日に迫ったとき、おれは待ちきれずに労働基準監督署に電話を掛けた。
「ああ、ちょうど連絡をとろうとしていたところです」
担当官は、マンダ書院から回答があったことを告げた。
わざわざ出向いて聞くほどのことはなかった、と後からなら分かる。だが、そのときは再び雁首を揃えて、古びた中層ビルの入口を潜った。
担当官の説明によれば、(株)マンダ書院と、あなた方を雇用したマンダ書院は、所在地が別の区に属していて、社名が似ていても何ら問題は無いのだという。
そうした例は少なからずあって、結論から言えば、あなた方の思い込みに端を発した騒動にすぎない。朝礼に誰が来て訓辞をしようと、今回の提訴には関係の無いことで、給料も期日には支払うと言ってきているから、むしろ良心的な会社と認定できるのだという。
「われわれは、もっと悪質な事例をたくさん目にしています。・・それはともかく、お疲れさまでした」
その言葉で、終止符をうたれた。
清算日に給料をもらって、おれたちの闘いは終わった。
短い間だったが、若者たちはよく心を一つにして立ち向かったと思う。
敵は計算ずくであり、おれたちを最長三ヶ月間の消耗品と考えているのだ。おれたちが辞めても別の人間を雇えばいい。新聞の募集欄を見て、いくらでも集まってくるはずだ。
おれたちは負けた。
だが若者たちは、カネを手にするとさっさと散っていった。負けた暗さなど微塵も残していなかった。
(あいつらは、闘いに酔っていただけだ)
学生気分の延長上で楽しんでいたに違いない。
それに引き換え、おれはまもなく三十歳になろうとしていた。若者たちのようにすんなりと戻っていける巣を持たない。身を沈めた喫茶店のソファー、そのビロードの感触をまさぐりながら、おれは再びあの倦怠の中へ還っていけるかどうか危ぶんでいた。
おれの目の前に、童顔をさらす年少の男がいた。ただ一人残っておれに付き合ってくれたイノウエだった。おれは、イノウエの気遣いに感謝しながら、額も眉も首筋も剃りたてのように清らかなこの男を、疎みはじめていた。
(続く)
おれは、いきり立つ若者たちの言葉を、ボックス席の底で他人ごとのように聞き流していた。
おれの頭の中に、労働基準監督署の存在が浮かんだ。どれほどの力を与えてくれるものか見当もつかなかったが、諦めの思いの中で微かに点滅しはじめた希望のようなものを、若者たちに示した。
反応は、予想を超えた。
おれは、おれを称える若者たちの言葉に心をくすぐられたが、一方で醒めた思いが胸の中の火を覆うのにも気が付いていた。
それまでの経験から、社会というものが一筋縄ではいかないことを実感していたからだろう。安易に期待を抱くことの怖さを反芻していた。
「まやかしの社名を騙った社員募集です」
「おれたちは被害をうけました」
と、口々に申し立てたところで、どれほどの罪を問えるものか。
翌日、おれたちは出社してマンダ書院専務の登場を待ったが、案の定雲隠れして姿を見せることはなかった。
「それならば、昨日までの賃金を清算してほしい」
と要求するのが、おれたちの作戦だった。
応じなければ、役所に駆け込む口実が一つ増える。
事務員の答えは、給料清算日までは払えないというものだった。
こうした引き延ばしは、おれたちの立場を弱くするものだ。この先いつまで団結していられるか、時間との闘いに勝てる自信はなかった。
やむなく行動を起こすことにした。前もって調べておいた労働基準監督署の電話番号にダイアルして、これから相談にいきたいと伝えた。
ぞろぞろと連なって現れたおれたちを見て、担当官は一瞬迷惑そうに顔をしかめた。すぐに思い直して表情をととのえたが、太い黒縁メガネの中の瞳は嘘をつけずに、いつまでも冷たい光を放っていた。
「椅子が二つだけしかありませんので、代表者二名だけお入りください」
おれは、とっさに一番気に入っているイノウエを指名し、ほかの若者たちがブース後方のベンチに退くのを待った。
担当官は、手元の罫紙にメモを取りながら、おれたちの訴えを聞いた。そして、いまのところ深刻な問題との認識はできないが、マンダ書院に社員募集のいきさつを聞いてみて、非があれば正すように指導すると答えた。
「給料の不払い等があれば、別ですがね・・」
そうなれば対応も違ってくる、と言外に示していた。
後日、連絡をするかもしれないということで、おれはアパートの住所と電話番号を書かされた。
「これは大家さんの電話で、この番号に掛けると呼び出してくれるのです」
おれは説明した。ふだん気にも留めていなかったが、あらたまった場所で生活レベルを確認させられるのは、愉快なことではなかった。
翌日も翌々日も、おれたちはマンダ書院に通った。無断欠勤だなどと難癖をつけられるのを防ぐためだ。そうして半月に一度の給料清算日まであと数日に迫ったとき、おれは待ちきれずに労働基準監督署に電話を掛けた。
「ああ、ちょうど連絡をとろうとしていたところです」
担当官は、マンダ書院から回答があったことを告げた。
わざわざ出向いて聞くほどのことはなかった、と後からなら分かる。だが、そのときは再び雁首を揃えて、古びた中層ビルの入口を潜った。
担当官の説明によれば、(株)マンダ書院と、あなた方を雇用したマンダ書院は、所在地が別の区に属していて、社名が似ていても何ら問題は無いのだという。
そうした例は少なからずあって、結論から言えば、あなた方の思い込みに端を発した騒動にすぎない。朝礼に誰が来て訓辞をしようと、今回の提訴には関係の無いことで、給料も期日には支払うと言ってきているから、むしろ良心的な会社と認定できるのだという。
「われわれは、もっと悪質な事例をたくさん目にしています。・・それはともかく、お疲れさまでした」
その言葉で、終止符をうたれた。
清算日に給料をもらって、おれたちの闘いは終わった。
短い間だったが、若者たちはよく心を一つにして立ち向かったと思う。
敵は計算ずくであり、おれたちを最長三ヶ月間の消耗品と考えているのだ。おれたちが辞めても別の人間を雇えばいい。新聞の募集欄を見て、いくらでも集まってくるはずだ。
おれたちは負けた。
だが若者たちは、カネを手にするとさっさと散っていった。負けた暗さなど微塵も残していなかった。
(あいつらは、闘いに酔っていただけだ)
学生気分の延長上で楽しんでいたに違いない。
それに引き換え、おれはまもなく三十歳になろうとしていた。若者たちのようにすんなりと戻っていける巣を持たない。身を沈めた喫茶店のソファー、そのビロードの感触をまさぐりながら、おれは再びあの倦怠の中へ還っていけるかどうか危ぶんでいた。
おれの目の前に、童顔をさらす年少の男がいた。ただ一人残っておれに付き合ってくれたイノウエだった。おれは、イノウエの気遣いに感謝しながら、額も眉も首筋も剃りたてのように清らかなこの男を、疎みはじめていた。
(続く)
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