修三夫婦は、よくクルマで出かける。近くのホームセンターであったり、郊外のスーパー銭湯であったり、さまざまである。
クルマは、石垣の下でアイドリングしていて、妻が乗り込むとすぐに出発する。その際、妻は助手席の窓を開けて、生垣越しに声をかける。
「アキナちゃん、行ってくるね」
ひと声の返事もないが、アキナちゃんはそこに居るのだという。「・・・・わたしたちが出かけるときは、かならず姿を隠すのよ。犬小屋に入っているんだけど、耳だけが影になって見えたりするの。変わってるでしょ?」
「声をかけられるのが、嫌なんじゃないか」
「そう、拗ねてるんじゃないかしら」
「なんだか、いじらしくなっちゃうね。・・・・そういえば、自分がお出かけから帰ってきたときなんか、誇らしげに吠えてるもんな」
あらためて、アキナちゃんの屈折した心理に想いが及んだ。
そんなことが、しばしばあったものだから、今回の渋面に呆れながらも、何とか理屈をつけようと考えてしまうのだ。
アキナちゃんは、近頃の若者たちより、よほどものを考えている気がする。心の襞が複雑で、ときには犬の域を超えて人間をも悩ませる。
修三は、定年後の退屈な日常のなかで、アキナちゃんに出会ったことに感謝の気持ちでいっぱいだった。
その後のアキナちゃんの身の上に、さほど大きな変化もなく、年月だけが過ぎていった。
修三が五歳齢をとる間に、アキナちゃんは七倍老けて、推定六十歳を迎えたはずだと、振り返ってみたところだ。
近頃では、子供たちや道行く人に対して、むやみに吠えたてることは少なくなった。走り回るエネルギーが衰えたのか、あるいは通行人に飽きたのか。
いずれにせよ、ここまで病気もせずに、よく仕事を全うしたものだ。アキナちゃんの番犬としての功績は、表彰に値するのではないかと、修三はかねがね考えている。
多少、運動量は減ったとしても、いまもなお、標的を郵便屋さんと新聞配達人に絞って、毎日欠かさずエクササイズを続ける姿勢は、見上げたものである。
令夫人の方は、相変わらず隙のない服装でお出かけして行き、ひとり溌剌とした輝きを保っている。いつ見ても、セットしたてのような髪型をしていて、修三がぼうっと見とれてしまうほどなのだ。
外見だけ気にしても若さは保てないから、おそらく日々の生活に満足しているのだろう。奥さんを新鮮なまま保持していける亭主も、なかなか大した男だと感心していた。
それはともかく、最近、令夫人に連れられて散歩に出たアキナちゃんと、スーパーマーケットの入口で出会った。修三は、酒のつまみを買うつもりで立ち寄ったのだが、自転車置き場の金属製ポールに、アキナちゃんが繋がれていたのだった。
令夫人は、まだ中で買物をしているのだろう。アキナちゃんだけが、落ち着きなく自動ドアの内側を覗き込んでいた。
「あれ、アキナちゃんどうしたの」
いきなり背後から声をかけたせいか、アキナちゃんはビクッと腰を落としそうになった。
大きな声を出したつもりはなかったが、不安な気持ちでいるところへ、追い討ちをかけるような呼びかけをしてしまったことで、修三はアキナちゃんに、ちょっぴり済まない気持ちがした。
「ごめん、ごめん」
謝りながら、あらためてアキナちゃんの臆病ぶりに、苦笑いも出た。
「そうか、おかあさんの買物が終わるのを待っているのか・・・・」
判っているよと同情を示すと、横目で修三を見ていたアキナちゃんが、顎を伸ばし、鼻先を反らしながら、その通りなんだと同意をするように、ウーウウーンと抑揚のはっきりした返事をした。
久しぶりに聞く、アキナちゃんのおしゃべりだった。あたしを置いたまま、おかあさんが戻ってこないんだよと、顔見知りの小父さんに愚痴をこぼす子供のような訴え方だった。
「うーん、そうなのか。アキナちゃんをひとりにして、悪いよね」
令夫人が居ないのを好いことに、修三もアキナちゃんに同調した。
「あら、この犬なにかしゃべってるよ」
こども連れの主婦が、怪訝そうに振り返って行く。
修三は、すっかり好い気分になって、アキナちゃんの訴えに相槌を打ち続けた。
(続く)
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