アキナちゃんとの間に秘密ができて、修三はしばらくウキウキした気分を味わった。
ふたりだけのヒミツを共有したわけだから、アキナちゃんを遠目に眺めているだけで満足だった。
何も知らないご主人が、アキナちゃんの面倒をみているときも、修三の心中は穏やかだった。
令夫人がアキナちゃんを連れて近くのスーパーマーケットに買物に出かけていっても、こころの中では、あの夜の会話を思い出し、余裕すら感じていた。
(アキナちゃんと、ながーいことお話したんだものね)
修三は、生涯一度の不倫をしたときと同じくらいの興奮を覚えていた。飼い主夫婦でさえ知らないアキナちゃんの素顔に触れたという事実は、修三に大いなる愉悦をもたらすものだった。
数日たった日曜日の午後、自転車に油をさしていた修三は、ちょうど散歩から戻ってきたアキナちゃんと、勝手口の近くで遭遇した。
ご主人が持つリードを引っ張るようにして、アキナちゃんが近付いてくる。明らかに、修三のほうを目指しているようにおもわれた。
「ほう、アキナちゃん、散歩に行ってきたの」
修三は、ミシン油の容器を傍らに置き、しゃがみこんで両手を広げた。
一瞬、指先の汚れが気になった。内心、軍手でもはめて作業をすればよかったと悔やんでいたところだったので、このままアキナちゃんを撫でたりしたら、手入れの行き届いたビロードのような毛並みに、油汚れをこすり付けることになるのではないかと躊躇した。
修三の揺れ動く気持ちが反映したのか、アキナちゃんが急に立ち止まった。修三が愛想笑いをするのを見上げて、前肢の付け根辺りから低い唸り声を発した。
「おや?」と、おもうまもなく、手を伸ばした修三にアキナちゃんが歯を剥いた。ご主人が、あわててリードを引いた。
制せられると、余計にいきり立つ。何が気に入らないのか、上唇を巻き上げ、鼻にしわを寄せて、凶悪犯でも発見したかのような形相をした。
「ええっ・・・・」
修三は、路上に尻を付きそうになった。
意表を突かれるというより、恐怖に近い感情だった。数日前に、あれほど心細げに擦り寄ってきたアキナちゃんが、餌や水を与え、不安を慰めてやった自分に歯を剥くとは・・・・。
とてもあり得ないことが起こって、修三の笑みが凍りついた。
「いやあ、理解不能だわ」
ご主人の前で、おもわず本音を漏らした。
飼い主の方も、鼻白んだ。リードを強く引いて、その場を離れた。
その日以来、隣家のご主人との関係は、気まずいものになった。特に険悪なやり取りがあったわけではないが、顔を合わせたとき、どうしてもしっくりと心を通わすことができず、月並みな挨拶を交わすとすぐ、互いにその場を立ち去ろうとするのだった。
アキナちゃんに声をかけない日々が続いた。
それでも、アキナちゃんを嫌いになったわけではなかった。
修三の家の周囲にはたくさんの犬がいて、外で出会うと、人懐っこく寄って来るような犬がほとんどだった。飼い主とも友好的な挨拶を交わし、笑顔で分かれることになる。それも悪くはないが、そうした繰り返しはあまり面白くなかった。
ショックが癒えると、またアキナちゃんの存在に想いが移っていった。
アキナちゃんは、なぜ修三に敵意をみせたのか。
修三は、ときどき彼女の心中におもいを馳せることがあった。相変わらず通行人に吠え掛かり、バイクの音がすると臨戦態勢に入る。普段の行動に、それほど大きな変化は感じられない。それなのに、なぜ、アキナちゃんは両極端の反応を示したのか。
「おそらく・・・・」と、修三は胸中深くつぶやいた。
あの犬は、人一倍繊細な神経を持っていて、頭も群を抜いて勝れているはずだ。寂しさに堪えきれずに訴えかけたのも真実だし、散歩の途中で出会った修三に歯を剥いたのも事実なのだ。
だとすれば、アキナちゃんは、修三に意味深い渋面を作って見せたのではないか。
最愛のご主人に連れられて散歩をしている最中に、彼女の弱みを知る修三に出会った。とっさに告げ口されるのを恐れ、そのけん制のために威嚇を試みたのではなかったか。
修三には、そうした穿った見方が、あながち見当違いとはおもえない確信めいたものがあったのである。
(続く)
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