(夜の旗)
義妹夫婦が帰ったあと、聡子は台所の片付けをしながら、ひとり思い出し笑いをしていた。
「なんだ、どうしたんだ?」
骨董品を対象にああだこうだと鑑定する人気番組を見ていた正人が、ゲストのタレントに笑いの原因でもあるのかと問いかけの視線を投げかけた。
「いや、そんなんじゃないの。千恵子ったらとんだおっちょこちょいなんだから・・・・」
終いまで言わずに、聡子はまた笑った。
「一人だけ笑っているなんて、いやらしい奴だな」
「そう、ほんとにいやらしいのよ」
聡子はエプロンで手をぬぐいながら、正人のいるソファの前まで戻ってきた。
そしてテレビの上の箱を指さしながら、「・・・・あなたの大事な旗を、合図のサインだと勘違いしているのよ」
聡子が示した旗というのは、割り箸に7センチほどの四角い紙を糊づけしたミニサイズの手作り国旗である。
紙の中央に赤丸が描いてあるから一応日の丸風なのだが、本来は糖尿病の正人が就寝前のインスリン注射を忘れないように作ったものだった。
聡子のアイデアで、箱の中に倒してあれば注射は「まだ」、立っていれば「すみ」の合図というわけだ。
当初、ばかばかしいと反対した正人だったが、実際に忘れて翌日高血糖がつづいたことがあるので強く反発することはできなかった。
「わたしだって、あなたが注射したのかしないのか判らないと、気になってしょうがないのよ」
あっさりと本音を漏らした。
(へっ、あなたの大事な旗とかいったって、結局自分のためじゃないか・・・・)
口まで出かかったが、途中で呑みこんだ。
本来注射を忘れないための工夫なのだから、下手なことを言うわけにはいかない。
(それはともかく、合図のサインとはどういうことだ?)
義妹が勘違いしたとなると、まさか・・・・。
聡子の笑い方からすると、どうやらアノことを指すらしい。
「つまり、夜のお誘いってことかい」
正夫は少々もてあまし気味に訊いた。
「そうなの、いやらしいでしょう? なにを想像してるんでしょうねえ、あの子・・・・」
「日の丸の上に、夜の旗なんて書き加えるからいけないんだ。千恵子さんに見られたと思うと急に恥ずかしくなったよ」
正夫は憮然とした表情で、顎のあたりをなぜた。
たしかに可笑しいには可笑しいが、それよりも実体にそぐわないような落ち着きなさを感じる。
義妹が早とちりしたと言ったって、火の気すらないのだから恥ずかしさの質が違うのだ。
(そういやあ、オレはいつからご無沙汰なんだろう)
職員旅行の流れで、コンパニオン相手に試みて失敗したのが最後だった。
あのとき以来、心身ともに折れたのだから七、八年は経つはずだ。
話には聞いていたものの病の影響は顕著で、オトコの自負もどこかへ消えてしまった。
最初のうちこそ怖れが先に立ち、後ろめたさを感じたものだが、肝心の聡子が不満の態度を見せないものだからいつしか無関心になっていた。
互いに知らんぷりを決め込んで、変わり映えのしない年月を送ってきた。
そこへ今度の勘違いである。
他人ならともかく、義理の妹とはいえ身内に肌をまさぐられたような面映ゆさが残る。
正夫はあらためて現実に目を向けさせられ、こんな時が来るとは考えもしなかったと、来し方を紙でもめくるように繰り戻すのだった。
正夫にも、のっぴきならない男女関係になりかけたことが一度あった。
私立高校の教師としてキャリアを積み、国語の主任を任されて数年たったころだった。
もともとが職能学校だった関係で、現在も女子高校として創設当時の伝統を守っている。
女性の地位向上を謳う一方、礼儀だ、お作法だと守旧的な教育理念に重きがおかれ、生徒たちは横溢する生命力を発散しかねていた。
本来ならボーイフレンドと共に渋谷や原宿で青春を謳歌する年頃なのに、仲間と連れだって乗降駅近くの甘味処に立ち寄るぐらいしか愉しみがない。
中には他を欺いて恋愛ごっこに興じる者もいるが、健全な場で知り合う機会が狭められているせいか、陥穽と隣り合わせの危険を孕んでいる。正夫の耳にも時折そうした噂が飛び込んできて、職員会議の場に駆り出される。
いずれの場合も、直接指導に当たるのは生活指導のベテラン女性教師で、正夫などはたいてい埒外にいる。
ひとたび彼女らに関わったら、学科どころの騒ぎではなくなるだろうと、周囲の判断も正夫に甘く整えられていた。
女子高で男性教師が教職を全うするのは、なかなか大変なことらしい。
生徒とは目を合わさないようにするのが一番と、まるで熊や猿に出会った時の心得みたいなことを叩き込まれていた。
ところが、予期せぬことは突然やって来る。
あるとき正夫の靴の中に付けぶみが忍ばせてあり、それが事件の発端になった。
国語の授業中に、熱っぽい目を向ける女子高生の存在に気づいてはいた。
危険な動物との遭遇を意識して、極力視線を逸らす動作がつづいた。
だが、不自然さは他の生徒たちにもすぐ見破られた。
ざわつく空気を感じ、それ以上のごまかしはできない状況になっていた。
正夫は、当の女子高生を放課後の実習室に呼び出し、密かに事件解決を図ろうとした。
「こんなやり方は、先生が一番嫌うことだよ」
たしなめる言葉のはずが、まるで好きと言っているような隙をつくっていた。
正夫は、行き場をなくした生徒にいきなり抱きつかれた。
「嫌われたって好き、好き、好き・・・・」
やわらかい胸を押し付けられて、邪険に振りほどくことはできなかった。
(きみを、こんなことで止めさせるわけにはいかない)
教師としての自分も、学校から締め出されるだろうことを説いて納得させた。
しばらくの間うわさが駆けめぐったが、なんとか窮地を脱することができた。
その生徒が卒業して二年後に、ふたりは市主催の秋の美術展で再会することになった。
正夫は趣味の写真を毎年出品していて、何度か入賞の赤い札を貼られたことがある。
それが今回は、最優秀の金賞を受賞し、地方版の片隅に名前が載ったのだ。
ファッション関係の雑誌社で働く卒業生は、イギリス風のチェックのジャケットとエメラルドグリーンのスカートを翻して彼の前に現れた。
甘い香料の匂いが、おとなの女になった自信を問わず語りに発散させていた。
「よくわかったな」
「新聞見たの・・・・」
「勤めは東京だったよな?」
気がつくと、正夫の方も別れた恋人に対するようななれなれしさを見せていた。
その後の消息は知らなかったが、現在も雑誌社に腰を落ち着けていると聞いて安堵の気持ちが湧いた。
嬉々として話し込む二人を窺いながら、旧知の写真愛好家が好奇の視線を向けた。
正夫もその気配を感じたが、気がつかないふりをして教え子の報告を聴くことに集中した。
あたかも共犯関係を愉しむように、おのれの浮かれた姿を是認していた。
金賞受賞の祝いに名を借りて、数駅離れたサテライト都市のホテルで食事をした。
「やっと先生と二人きりになれた・・・・」
ワインのほてりが、耳たぶをピンクに染めていた。
正夫は、実習室で抱きつかれた時のむせるような汗のにおいを思い出していた。
押し付けられた胸の記憶が、アルコールと共に鼓動を速くした。
あの弾力を、掌に受けとめてみたい。
正夫は、港を見下ろす20階の一室をリザーブし、三年越しの想いを遂げた。
(人は結局、思い立ったことを全うしようとするものだ)
正夫自身のことというより、目の前の卒業生に当てはまる心理だと感じ取っていた。
あのとき少女は、ライバルを押しのけて、どうしても自分ひとりに目を向けさせたいと思ったはずだ。
教師に抱いた感情を全身で確認しない限り、あのときの自分から前進できないのだ。
ベッドの上で丸まる少女を見降ろしながら、正夫は責任を果たした満足を覚えた。
「ぼくは先に帰るけど、キミはゆっくりしていったらいいよ」
後ろめたさを感じたが、遅くなっても家族のもとに帰る習慣は変えたくなかった。
「とりあえず、約束を果たしたって感じなのかな・・・・」
女も彼と同様の感慨を抱いたらしかった。
男の野生も、やみくもな情熱も、正夫からは汲み取れなかったのかもしれない。
二十歳の成熟した女性に、冷静な判断をさせた自分は能なしなのだろう。
自嘲するように唇を結んで、正夫はワイシャツを身につけた。
あるいは彼の頭の中にあった自制の思念が、細胞を通して彼女に伝わったのかもしれなかった。
「先生ありがとう。わたし別のボーイフレンドと結婚するから安心して」
「きみのファッションセンスは抜群だから、きっと成功すると思うよ」
ホテル20階の窓にドックの明かりを残して、深夜の帰宅となった。
思えば胸に秘めた数少ない想い出であった。
正夫が意欲の減退を感じるようになったのは、それから十年も後のことだ。
入試の準備や、事務局との交渉で無理をしたりすると、疲れがなかなか取れない状態になった。
趣味の写真もすっかりご無沙汰となり、川沿いの散歩コースからも縁遠くなった。
「あなたワンちゃんでも飼ってみたら」
元来犬好きとは思えない聡子のひと言が、よけいに胸に響いた。
どちらに原因があるのか、子供を授かる望みを断たれたことも正夫を無気力にしていた。
おそらく生殖機能に弱みがあるのは自分の方だろうと、自責の念に駆られたこともある。
急に痩せてきたことで、癌や他の成人病が疑われた。
病院に行くと、血液検査の段階で早々と原因が突き止められ、三日後には入院ということになった。
血糖値が異常に高く、インスリンの分泌が著しく阻害されているという結果が出たのである。
糖尿病とわかって、聡子は正夫にやさしくなった。
病院での食事療法講座にも積極的に参加して、野菜中心の献立を作るようになった。
要求ではなく、いたわりを見せられることで、正夫はおのれの置かれた位置を知った。
(もう、子供を欲しがられる心配はない。なぜなら、あなたにはその能力がないのだから・・・・)
聡子の寛容には、そんな思いが潜んでいる気がした。
医師の厳命に反して、酒を飲み、うなぎや天ぷらを食して見せたのは、どんな心境からだったろう。
「あら、そんなにいうこと聞かないのなら、看護婦さんに言いつけちゃうから・・・・」
日々カロリー計算をしながら献立を用意する聡子が、癇癪を起しても不思議のない状況のはずだった。
(怒れよ!)
聡子の態度に、苛立ちを覚えたのも遠い話である。
「あなた、もうすぐ十一時よ。注射するの忘れないでね」
へえ、へえという態度で、正夫はサイドボードからポーチを取りだした。
この日四回目の注射の時間である。
遺伝なのか、後天的な理由によるのか、ほとんどインスリンを生産しない膵臓を抱えて十年を過ごしてきた。
「ハハ、あの子たち、もう家に着いたかしら」
いつまでたっても、妹をあの子という癖は変わっていない。
正夫にとっては義妹に当たる千恵子が、一姫二太郎の順に子供を授かったことまで気にかかっている。
あと一人できたら養子にでも貰おうかと、聡子が口に出したことがある。
しかし、実際には打ち止めになって今日に至っている。
(オレが千恵子さんに三人目を産ませたら、どうなったかな)
あり得ない妄想を思い描きつつ、太ももに針を突き刺した。
「痛てッ」
皮下ではなく、静脈を直撃したようだ。
そのままポンプを押し、針を引き抜くとみるみる血が噴き出した。
すばやくアルコール綿で押さえ、一日の終わりを意識する。
テレビの上の箱から「夜の旗」をつまみ上げ、小口のビンに立てれば任務完了である。
口ほどにもない男の居場所は、敷きっぱなしの寝具の中に移るのであった。
(おわり)
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その裏付けが持病を抱えた高校教師の哀れさにあるのでしょうか。
だけど、心を寄せていた元女子生徒と想いを果たしたのは、せめての幸いでした。
さらに、貫かれているのは聡子という賢婦人の輝きでしょう。
とはいえ、どこまでもペーソスが流れ、我と我が身を振りかえざるを得なくなりました。
ほんとうに切ない男女劇をこうして描き出す手法は、お見事なものですね。
コメントありがとうございます。
めずらしく肯定的な結末になったでしょう?
タイトルと主人公の立場に注目していただき、うれしかったです。
なんだかおかしくもほろ苦い―それだけでそういうことが間遠になっている中年夫婦のありようを伝えてきて、実に秀逸な出だしですね。結婚当初はあんなに待ち遠しかった二人の夜はどこへ行ってしまったんだろう。
誰でも思うに違いないそんな言葉まで浮かんできて思わず引き込まれてしまいます。
この導入部を思いついたら、後は何を書いても読者はついてきますね。
何だって書ける・・・魔法の導入部だなあー。
ホント感服です。
もちろん小説としての面白さを堪能させられました。
そしていつものことですが、主人公に沿って客観性を与えてくれる知恵熱おやじさんのコメントに、励まされております。
ありがとうございました。