「辺見庸の予感したもの」
2011年11月11日は、3月11日の東日本大震災からちょうど八か月目の日にあたる。
この日に当たって、有識者が被災地復興の遅れに苦言を呈したのは至極もっともであったが、具体策のない、汗も苦脳もともなわないコトバは却って空しさを増幅した。
むしろ、6個の1が並んだ数字の示す尖った暗示が、人びとに未来への予感を示したのではないだろうか。
あるいは、予感というより、予言というべきかもしれないが。
図らずもこの日、他者のブログで辺見庸の言葉に遭遇した。
震災のみならず原発事故をも見とおした3月15日発売の「朝日ジャーナル」だそうである。
『標なき終わりへの未来論』というもので、終末へ向かうニホン崩壊のプロセスがあたかも規則正しいスケジュール表のように書かれているという。
ブログ『唇からナイフ もしくは余計なお世話』(http://blog.livedoor.jp/lucius_as/archives/2456047.html)から一部引用させていただく。(引用許可連絡の方法をさがしています)
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――すさまじい大地震がくるだろう。
――ひじょうに大きな原発事故があるだろう。
このエッセイは概ね30年後を頭の隅に置いて書いている。ニホンがゆっくりじわりじわりと世界と内部から冒されていき、その過程のひとつのきっかけとして大地震と原発事故を想定しているのだが、それがなんということか有無を言わせず前倒しで同時にやってきてしまったのである。
この雑誌は3/15発売であるから脱稿は1月下旬から2月初旬であろう。つまり辺見は正月頃この原稿を書いている計算になるが、それから二月経つか経たないうちに、
――富める者はたくさん生きのこり、貧しい者はたくさん死ぬであろう。
と書いたそのままのことが目の前で起こり、確実に進行を開始した。
しかも3/11に辺見がテレビで見た風景は古里、石巻の惨状であった。なんということだ。ニホン人への警鐘を「標なき終わりへの未来論」として30年後から50年後の崩壊を語ったその本人の育った町が、いま一瞬間のうちに物理的に破壊されていく現実。
30年の前倒しとはいったい何なのか。その後の20年がそのまま前倒しされるということなのか。またはその間違いを正そうという契機となるのか。
いずれにせよ最早、辺見庸から目を離すことはできない。
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当ブログでは、以前フットチーネさんのブログから、辺見庸の寄稿を引用させていただいた。(『炎の水と天使カシエル』)
以下再掲させていただくが、辺見庸の予言はどこまでも新しい。
震災緊急特別寄稿 「日常の崩壊と新たな未来―非情無比にして荘厳なもの」
風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。
その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音でもあり、耳の底の幻聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。
それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそうたけり、ますます化け物じみた。家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具のように手もなく水に押しながされた。
ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたしはなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よりもひどいうつつだった。
それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情無比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐懼せよ」と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。
わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。これは、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示録的光景はそれじしん津波にのまれた一幅の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけられた。
知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとられた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこにもない。磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。
津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最強、征服できぬ自然なし、人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲」にも、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。
時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりとわかっていることがいくつかある。
われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。
愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかでなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。
家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか、すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。
カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公のベルナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。
混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること。悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。
いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死をのんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。
わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。
(2011年3月16日水曜 北日本新聞朝刊より転載)
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再びブログ『唇からナイフ もしくは余計なお世話』から。
カミュの『ペスト』には天災のすべてが載っている。正確には、天災の中で人間はどう動くかということの全てが書いてある。そういう意味で『ペスト』は「天災の哲学書」だと思う。
1947年の発表以来、比喩的裏読みは幾度となくなされたわけだが、今こうして目の前の大災害と終りのない恐怖を目の当たりにしながら読み返すと、その普遍性にあらためて驚く。この小説はアルジェリアの都市オランを書いているのだが同時に、今ここにある東北、関東、そして日本全体を書いているかのようにみえる。
予告なしの到来、蔓延、隔離、死。抜き差しならない状況下に、あらゆる立場の人間を登場させ、あらゆるケースの行動をつぶさに描いているからこそ圧倒的に普遍的なのである。
喩えていえば、この小説には石巻市の医師もいるし、原発に放水をした自衛隊の英雄もいる。当然、枝野幸男もいるし、「天罰」発言をした石原慎太郎も宗教家の役で出てくる。そしてマスコミが何をどう報道するかも、まるで昨日今日の日本の大新聞の有様を見抜いているかのように詳細だ。人間の行動を書き込めば書き込むほどあらゆる境界線は消えていく。
辺見庸が『しのびよる破局』の中で『ペスト』を取り上げていたのを思い出し、開いてみた。彼は言う。
――カミュは地域的に限定された病理としてのペストを書きたかったのではなく、もっと普遍的な悪について書きたかったのだとおもいます。オラン独特の悪ではなく、全世界的な悪としてのペスト。つまり、「絶対悪」ということを想定していたとおもわれるのです――と。
そしてその悪を前にしてカミュが問いかけたのは、
――(ペストという)医学的な問題のなかにも人間的な自省が必要なのだといっている――と読み、
――たんに経済だけの問題ではなく、人間の価値観全体の問題なのだといったときに、深い内省と自省というものがどうしても必要になってくるだろうとおもうのです――と考える。
NHK・ETV特集を本にまとめ直したこの著作はちょうど2年前の春に発行されていて、折からの新型インフルと経済危機を絡めて社会と人間性の破局を語ろうとしているのだが、こうして読んでみると、我々ニホン人には現在ただいまこそ相応しい文章だと思えるのである。
辺見の次の言葉はまるで、震災と原発事故を眼前にして、いったい何をなすべきか何から始めるべきか、その方向がまったく見えていない現在の我々に語りかけているかのようだ。
――だから、いま何が危機で、何が破局なのかといったばあい、ある程度横断的に問題を整理していったほうがいいと思うのです。経済だけでなく、むしろ経済の基を支えているいろいろな人間の動機というのでしょうか、生きていく動機のようなものが千々に乱れている。というよりも、変調をきたしている。(略)
人間とはいったいなにか。人間とはいったいどうあるべきなのか。そういう初歩の、本当に原始的なスタート地点の問いにまで立ちもどらなければいけない。本当にとりもどさなければならないのは、世の中でいわれているような経済の繁栄なのか、ぼくはうたがわしいとおもっているのです。また、以前のような経済の繁栄を取りもどすということがわれわれの至高の目標であるべきなのか。そうではないとおもうのです――
カミュは、小説の終盤、ペストとはその語の深い意味に於いて「追放と別離」であると書いている。それは好むと好まざるとに拘らずまたいかなる生活環境にあっても人は分断され、社会も体制も追放される運命の理不尽を背負っていると言っているのだが、現実に立ち返り、もしもニホン人が根本から自らを見直すことができれば、ひょっとすればまだ本来の意味での「再生」の可能性は残されていると伝えているようにも思えるのだが、それも甘い考えなのだろうか。
* * * *
最後に、文学界六月号に発表された辺見庸の巻頭詩篇「眼の海ーーわたしの死者たちに」より、一篇を引用させていただく。
「おまえはもう骨の啞者になれ」
半世紀まえ 朔の夜半
海原がおのずからもりあがり
わたしにつげた
「おまえはもう啞者になれ」
「骨の啞者になれ」
わたしは はかりかねた
海をはかりかねた
半世紀すぎても はかりかねる
じぶんでじぶんにつげてみる
「おまえはもう骨の啞者になれ」
「じぶんでじぶんの石臼を碾け」
「じぶんでじぶんの骨を碾け」
「だまってじぶんの骨を碾け」
じぶんの骨がくだければ 水がわいてくるのか
海がわいてくるのか
ことばが やっとにじむのか
時に、自ら語るより意思を伝えられる場合がある。
つまるところ、辺見庸のことばは予言に満ちている。
百年もつ言葉、何世紀に亘ってもつ言葉かもしれない。
カミュの「ペスト」を読み直すのもいい。
聖書に遡るルートも・・・・。
<開闢>
言葉は宇宙と共にあり、宇宙が滅びるまで鼓動をうちつづける。
(おわり)
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レインメーカーです。
辺見庸氏のことについてですが、我々を含めた日本が辺見氏のいう『誠実さ』から程遠く、そして悪い予感だけが現実になっているような気がします。
その典型が、野田政権の誕生、TPP問題、現政権による原子力推進と輸出という事態だと思います。
TPPに関するブログをトラックバックさせて頂きました(トラックバック申請が重複しているかもしれません。その場合はご容赦ください)。
それでは失礼いたします。
旧フットチーネさんのブログともども、ときどき覗いています。
おっしゃる通り、辺見庸の予感したとおりの現実になっていく気がします。
日本という生体の背骨に宿疴が棲みつき、どうにも振り払えない苦しみに怯えている感じです。
これらは眼に見える仕組みの問題というより、内在する無知の仕業かと思います。
トラックバックもありがとう。
これからも、いろいろご教示お願いします。