普段は、修三のことをまったく無視しているのに、アキナちゃんが意表の行動に出たことがある。
あれは、五年ほど前のことだったろうか。冬の夜のこと、仲間が開いた山の写真展から戻ってきて玄関をあけようとしていた修三は、垣根の向こうから悲しげな声で呼びかけられてぎょっとした。
クーン、クーン、クーン。
子犬が甘えるような声でもある。
「あれ、アキナちゃん?」
隣家は、いつもと違って真っ暗である。アキナちゃんがいるはずの犬小屋の辺りも、暗くて見えない。
どうしたのだろうと、庭を横切り、垣根越しに透かして見ると、いつのまにか修三の足下近くに寄ってきた犬が、横向きに坐り、顔だけこちらへ向けて彼を見上げていた。
「おや、まあ。アキナちゃんじゃありませんか。そんなところで、何をしているんですか」
すると、アキナちゃんは、顔を上げ下げしながら、ウーウ、ウーウォーンと、何事かを訴えかけてくる。
昼間、子どもたちや、郵便屋さんに吠えかかるのとは、別人の様子である。
飼い主夫妻に、多少甘え声で纏わり付くのを聞いたことはあるが、この夜のように修三の問いかけにウーウーと答え、抑揚はげしくしゃべり続けたのは、はじめてのことであった。
「そうか、アキナちゃん、心細いんだねえ」
修三は、この夜のハプニングに心が躍った。「・・・・アキナちゃんを独りぼっちにして、おかあさん、どこへ行ったのかなあ」
自然に連想したのは、令夫人のことだった。
商社マンのご主人が遅くなるのは当然として、昼間の飼い主たる令夫人がまだ帰宅していないということは、なぜかワクワクする出来事だったのである。
「アキナちゃん、ちょっと待っててね」
そう言い置いて、修三は玄関にとって返した。
この日は、たまたま女房が女学校時代の同級生と熱海に行っていて、明日にならなければ帰ってこない。
カギを開け、室内灯を点け、冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出し、小鉢に水を満たして、垣根の下に駆けつけた。
アキナちゃんは、ちょこんと坐ったまま、修三を待っていた。夢かとおもうような進行だった。
修三は、半信半疑のまま、剥いたソーセージを垣根の隙間から差し出した。
手に衝撃があって、アキナちゃんが奪うように噛み付いた。
すさまじい勢いで食らい付く様子は、さすがに獣の本性を見たおもいがしたが、代わって差し入れた小鉢の水を、ピチャピチャと音をたてて飲む段になると、急に愛しさを覚えた。
三年もの間、無視されてきたにもかかわらず、アキナちゃんとの距離がいっぺんに縮まったような気がした。
「アキナちゃん、バイバイ。小父さん引っ込むよ」
適切なことばが出てこなかったことを気に病みながら、修三は垣根の下から小鉢を引っ込めた。
飼い主に無断で餌をやるのはルール違反だと知っている。だから、たとえ犬に要求されたからといって、留守のうちに情を掛けたことが、後ろめたくおもわれた。
せめて、痕跡は残さないようにしよう。
水はこぼれても蒸発してしまうから分からないが、ソーセージはどうだろうかと、暗がりの中、くまなく点検をした。
隣家では、十一時ごろに帰宅したらしい。
聞き耳を立てていたわけではないが、夫婦そろってのご帰館だったようだ。どこかで待ち合わせをして、食事でもしてきたのだろう。あるいは、音楽会にでも行ってきたのか。
弾むような会話が、ひとこと、ふたこと交わされ、そのあと、アキナちゃんに話しかけるご主人の声が、ぼそぼそと聞こえてきた。
修三がかすかに期待したイレギュラーなできごとは、起きなかった。
令夫人の、いまでも変わらぬ美貌と装いが、亭主のためだけに保たれているなどとは、信じられないことだが、現実は、その信じられないことが進行しているのであった。
(よせやい・・・・)
修三が若いころに流行したことばが、とつぜん甦ってきた。
花の二十歳を迎えたばかりのアキナちゃんなら、心細いよ、寂しいよ、と訴えかけるのも絵になるが、新婚の感激も疾うに失せたとおもわれる年月を経て、なおも輝いていられる令夫人と亭主の存在が、修三には面映かった。
(続く)
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「呼びかけられて」「別人の様子」などと犬を人扱いする窪庭さんの澄ましたユーモア。
犬を人間扱いしているのか、はたまた主人公が犬になったつもりなのか、、、面白い描写の仕方を楽しませていただいています。
この流れの中でもっと突拍子もない面白さが現れてくるのではないかと、楽しみにしています。
窪庭さんの面白い感覚にびっくりです!
ごめん!
記事に名前を書くのを忘れました。
わたしでした。