(夢見るワンコちゃん)
犬も夢を見るという説は、動物の本能に興味を持つサワノ教授にとって、大いに関心のある話題であった。
昼間ドッグランに集まってくる犬を観察していると、とにかく走りたいという欲望が全身にみなぎっているのを感じる。
それは、餌に反応するのと同等の本能であろうと彼はおもう。
眠っていた犬が、とつぜん横になったまま激しく手足を動かすという夢見るワンコちゃんの存在は、走りたい本能の間接的な証明になるのではないか。
その動作は、図らずも本能の一つを発現させたものではないかと確信したのであった。
一方、動物の欲望を制御したらどうなるか。
飼育中のどうぶつに芸を仕込む調教は、多くの場合エサを餌に、成功したら与えるという繰り返しで訓練している。
つまり、本能の一時的制御による調教効果といえる。
こうした考察から類推すると、おおかたの飼い犬は運動量が不足していて、その欲求不満が夢見るワンコちゃんという現象を引き起こしたものと考えられる。
犬に関する二大本能の存在は、まず揺るぎないものとして定義しておかなければならないと彼は独り心に念押ししたのだった。
ならば、知性を持つ人間に同様の欲望制御を施したらどうなるか。
人為的に欠乏状態をつくりだすことで、モノに対する欲求がいっそう強くなるか。
サワノ教授が唱える<お預け効果>は、はたして有効なのか。
すでにマーケティング理論の一部に組み込まれた手法をむし返すことに、生徒たちがどう反応するか敏感になってはいたのである。
「やあ、おはよう。夢見るワンコちゃんのこと、諸君はどのように考えますか」
繰り返し用いてきたフレーズが発せられると、教室を埋め尽くした女子大生から「キャー」と声が上がった。
まんざらでもない反応である。
「・・・・十分に運動させてもらえない犬は、夢を見、夢の中で走り出すのですよ」
「は~い」
「きみたち、家で犬を飼ってますか?」
「飼ってま~す」
半数近くの手が挙がる。
「・・・・食べ物を目の前に置いて、お預けさせたことがありますか」
「ありまーす」
「どうです、ヨダレがだらだら流れたでしょう?」
「・・・・」
一部の生徒から、疑問の視線が投げかけられた。
「お手やお座りはできるようになってますか」
「はい、それは・・・・」
まずは<お預け効果>を意識させることが肝要だ。
そこまで確認させておいて、次の一歩に踏み出す予定だった。
サワノ教授は、犬の欲望をコントロールするのと同様に、正常な人間の欲求を一時的に遮断して禁断症状を作り出す方法を模索している。
そうすれば、反動で購買意欲がいっそう高まるというのが、彼のマーケティング理論の中核になっていた。
「犬の食欲と人の欲求とでは、少し違うんじゃないですか」
後ろの方から、女子大生の質問が飛んだ。
一瞬ギクリとしたが、そう深い考察からの疑問とも思えない。
「その通り」と、まず受け流した。
「人間の場合、一時的に飢餓感を作り出したところで、特定の商品に関心を向けさせるのは、なかなか大変ですよね」
「・・・・」
「犬が夢の中で激走することは、走る本能として定義されていますよね」
少々強引だが、彼の理論を展開する。
「しかし、人間には多岐にわたる欲求が潜在していて、禁断症状が即購買に結び付くとは限らないのです」
それでも、どうぶつ相手の欲望遮断とは比べ物にならない手法で、現に成功している企業もあると付け加えた。
「人間も、ある意味どうぶつであると言えるわけです」
サワノ教授は、ひとり頷いた。
「先生、抽象的すぎます。もっと具体的な例を挙げてください」
質問に立った女子大生が、苛立ったようにたたみかけた。
「ほほう、もう我慢できませんか。お預けを食ったワンコちゃんだって、もう少し辛抱しますよ」
教授の切り返しに、教室全体がワーッと沸きあがる。
「いやいや失敬、きみの質問は的を射ていますよ」
教授は女子大生をあしらうように言った。
「・・・・実際にどう活用され、どのような成果を上げたのか示さなければ、お預け理論などというものは成立しませんからね」
思わせぶりに鼻の下をこすった後、教授は教室全体を見回した。
「卑近な例としては・・・・」と、サワノ教授は多少声をひそめた。
「タレントに文学賞応募をさせて、あたかも稀なる才能を発掘したかのごとく宣伝した出版社がありましたよねえ」
お笑い芸人、タレント等、話題先行の出版は枚挙にいとまがないが、今度のように社主まで出てきて宣伝に一役買った例はあまり聞いたことがないと指摘した。
「おまけに予約販売ときたもんだ。中身がわからないから早く読みたいという欲求を逆手にとった」
買う方も買う方だが、お預け理論の実践結果としては大いなる成功例じゃないかと続けた。
おそらく、ノーベル文学賞候補作家の最新刊を売りまくった出版元のやり方を真似たのだろうが、今回のは「禁じ手」じゃないかと危ぶむほどだと付け加えた。
「納得しましたか?」
サワノ教授は、自信に満ちた表情をした。
「はい先生、それは私も感じていました。・・・・でも、他にもっとサンプルがありませんか」
(・・・・?)
それまでは完全に手中にあった学生が、彼の理論を軽んじ始めたのではないかと不安を感じた。
「お預け理論というのも、人間相手には禁じ手に近いんじゃないんですか」
あろうことか、一人の女子学生が正面切って彼に反旗を翻したのだ。
サワノ教授は一瞬むっとしたが、ここで取り乱しては元も子もないと思いなおした。
「しかし、テレビショッピングやラジオでの○○台限りという限定販売もありますから、一概に否定できませんでしょう?」
利益優先の世の中では、「禁じ手」と決めつけてすべてが済むというものではないと付け加えた。
なんとか窮地を脱して、サワノ教授はコップの水を飲んだ。
講義の途中で手を伸ばせば、内心の弱みを見透かされると思って我慢していたのだ。
喉を潤したいという欲求に則していえば、いわばサワノ自身がお預けを食った状態だった。
食道を通っていった水の旨さが、即<お預け効果>だと言ってやりたいぐらいだった。
「あたしのチャビは、お預けをさせても言うことを聞かないのですが・・・・」
別の女子大生が、とんちんかんな質問をくれた。
「あなた、ワンコの家来になってしまったんだねえ」
正しく訓練すれば、どんな犬も飼い主の支配下にあることを知るはずであると説明した。
「・・・・わがままな犬でも、最終的には人の顔色を窺うものです」
それでもチャビが愛くるしい犬であることを訴える女子大生に、サワノ教授はにんまりと笑って見せた。
「ぼくも一度、チャビに会ってみたいねえ」
「はい、いいですよ」
からかわれているのも気づかない学生に、あちこちから失笑が漏れた。
サワノは、口ひげをわずかに上げて今度は教室全体に視線を走らせる。
「チャピのほかに、お預けのできない犬はいませんか?」
奥の方で別の一人が手を挙げる。
「お名前は?」
「ジョーです」
「いやいや、君の名前のことだが・・・・」
わざとツッコミを入れる
今度は少し軽快な笑いが起きた。
「ジョーを散歩に連れていくと、おしっこのとき左足ばかり上げるのはどうしてですか」
「左足ばかりですか? ううーん、左利き、いや、右利きなのかな」
「何か意味があるのでしょうか」
「近くで見てないから、なかなか判断がつかないけどねえ」
サワノ教授は、誰かこの件で思い当たることがあったら手を挙げて下さいと促した。
サワノの授業は、脱線したまま時間が過ぎた。
それでも、笑いと歓声を巻き起こしながら給料分は働いたと自分に言い聞かせた。
サワノは、大学が夏休みに入ると、妻の経営する軽井沢の夏季限定喫茶店「エスポワール」で仕事を手伝うことがある。
普段は互いに干渉しないで、それぞれの仕事をこなしているのだが、別荘を改装して始めたオーガニック・カフェにサクラとして出動要請されるのだ。
高額の設備と無農薬野菜や有機ハムを揃えた割には、シーズンを通しての売り上げが上がらない。
ハイシーズンでも一日十数組の客しかやってこないのだ。
同業の店が多すぎるのか、はたまた店構えが古風すぎるのか。
コーヒー、紅茶の値段は場所がらそうは落とせないし、自慢のスイーツもこれ以上種類を増やすわけにはいかなかった。
それでいて、派手な宣伝や呼び込みはイヤというのだから始末が悪い。
あとは、目立たない程度のサクラ出動しかない。
亭主のマーケティング理論などそっちのけで、女房はなんとか客勢を取り戻そうとしていた。
軽井沢といっても、夏の盛りにはかなり気温が上がることがある。
特にここ四、五年は、温暖化のせいか三十度を超える日もある。
そうした中で、通りから見える芝生の上のテーブルで、教授は日がな一日囮の客を演じるのだ。
最初のうちは、自宅の書斎から持ち出した資料や研究書を読むことで時間をつぶすことができたが、日が重なるとイライラが昂じてくる。
やむを得ず、愛用の手鏡を操作して通過するクルマの車種を当てたり、他の客の動向を観察したりした。
鼻毛を気にする男、あくびをする女、つけ睫毛ごしに色目を使う年増、半ズボンに手を突っ込んでちんぽを掻く子供など、鏡に映る世界は極めて人間臭い。
サワノ教授は暇を持て余して、近ごろ見たどうぶつ関連のテレビ番組を反芻してみたりする。
なかでも「ト~リくさい、トリ臭い・・・・」と、自らの恥部を詠いあげるインコの芸には驚かされた。
もちろん飼い主の誘導があったからだろうが、鳥の習性を利用した人間の悪だくみ以上に、どうぶつ全般の能力アップを感じるのだ。
こんなインコが身近にいたら、さっそくサクラに利用したいものだと教授は思い出し、ついニヤニヤ笑いを漏らすのだった。
「タケオさ~ん、あなたサクラに向いてないんじゃない?」
一段落つくと、店内の仕事をアルバイトの女の子に任せて、妻のキミ子が亭主をからかいに来る。
「ぼくのお陰で、だいぶん客が入ったろう?」
「おあいにく様、あなたがボルゾイと遊んでいる間に、子ども連れのお母さんが怖がって出て行ったわ」
「えっ、あんなにおとなしい犬なのに?」
「だって、子どもが芝生の上を走ったら、いきなり駆け寄っていったじゃない」
「そりゃあ、もともと猟犬なんだもの」
「だから、あなたが制御しなくちゃいけないでしょう」
一部始終を見られていたのなら、抵抗しても無駄だった。
そんなこんなで、サワノの時間は浪費されていく。
グズグズ、あわあわと、クリームソーダのように、目の前で溶けていく。
文句の一つも言いたいのだが、妻のキミ子は亭主と夏の軽井沢で避暑をしている気分なのだから、逆らうわけにはいかないのだ。
遊びと商売とを両立させようなどとは実に虫の好過ぎる欲求だが、いまの若者にはウケそうなテーマにはちがいない。
(うん、観光地での商売、クリエイティブ作品のネット販売、外国でのレジャー案内人・・・・こんなのを拾い出して本にまとめてみるか)
飯のタネを思いついて、まんざらでもない顔をした。
それに、地方の大学講演が近づいていて、おおっぴらに羽根を伸ばすことができる。
(去年ねんごろになった学生と、再会できるかもしれない)
何度かメールがきて、向こうが待ち焦がれているはずだから、ホテルが決まったら連絡してやろう。
ニヤニヤしているところを、後ろからいきなりどやしつけられた。
「あなた、手鏡をつかって何を覗いているの? 痴漢と間違われるわよ」
ほんとにもう、しょうがないんだから。
敵がいたりしたら、どう陥れられるかわかない怖い世の中なのよ。
「・・・・大学の先生なんて、破廉恥な噂ひとつで権威も職も断たれちゃうんだから、よくよく気をつけてね」
近寄って来る女子学生に、鼻の下を伸ばしたりしたら承知しないから・・・・。
まるで手鏡を透して心の中を覗かれたような恐ろしさ。
サワノ教授は、妻に点検されないうちに彼女のメールアドレスを削除しようと決意した。
軽井沢にいるのに、汗がツツツーッと背筋を流れた。
(おわり)
あらためて傍観者の目で、この男の人生を眺めてしまいました。
おそらく書き手が意図した以上のことを、展開してくれたのだと思います。
こころからの感謝を申し上げます。
女子学生との授業での犬の習性と躾についてのやり取りの軽やかさ、避暑地の奥さんのお店のサクラになりきって愉しみながらどうやら女子学生の誰かとちょっとした火遊びも愉しんでいるらしい。そこに重いものは何もない。
「サワノの時間は浪費されていく」というフレーズが利いていますねー。
チャーミングな小品で、とても気持ちよく読ませていただきました。たまにはこういうのも精神衛生上いいなあー