おれが木更津から戻った夜、ウイークデイにも係わらず、ミナコさんがやってきた。チャイムに応じて玄関のドアを開けると、そこに項垂れたミナコさんの姿があった。
「どうしたの・・」
トラブルがあったことは、現れ方で明らかだった。おれは、ずぶ濡れで転がり込んできた雷雨の時と同じように、腕を広げて受け止めようとしたが、ミナコさんは俯いたまま三和土に立っていた。
「えっ、その顔どうしたのよ」
おれは、初めて異変に気付いて、ミナコさんの顎を上に向けさせた。右目の下から頬骨にかけて、野球のボールでも当たったように、紅く腫れ上がっていた。
「まさか、殴られたんじゃないでしょうね」
おれの頭の中で、閃光が走った。「あの野郎、ミナコさんを殴ったんだね!」
地方の大学で、サウスポーの投手として活躍したこともあるという証拠の写真を、社長室で見たことがある。その、誇らしげな左手で、こともあろうにおんなの顔を殴るとは・・。おれの頭から、一瞬にして血の気が引き、思わず壁に手を付きそうになった。
(くそ、殺してやる)
口に出したらミナコさんが一番嫌がるであろう言葉は、飲み込んだ。
「こんな怪我をさせやがって・・」
すぐに、病院に行って、視神経に異常はないか、脳にダメージはないか、検査をしようと促した。
「でも・・」ミナコさんが、渋った。
数時間まえに起こった出来事が、彼女を躊躇させているのかもしれない。あるいは、痴話喧嘩のひとつぐらいに思われるのを、恥じたのかもしれなかった。
そのとき、おれはおれで、自分の心の動きを羞じていた。
ミナコさんを気遣いながらも、あわよくば診断書を取って、後の対決に備えようとする下心が動いたからだ。
「とにかく、氷で冷やした方がいい」
おれは、夏も終わり近くになってやっと購入した小型冷蔵庫から、アイスノンを取り出して、ミナコさんに手渡した。
「それで、この後どうするつもりですか」
おれの問いかけは、少しせっかちすぎたようだ。
ミナコさんは、まだ蒼ざめたままの表情をしていた。殴られたショックが残っているのか、急な判断には至らないように見えた。
「まあ、いいよ。ちょっと、一息入れようか」
おれは、魔法瓶から急須に湯を注いで、緑茶を出した。こんな時には、砂糖を添えた紅茶の方が好かったかと、淹れなおしに立った。おれ自身もけっこう動揺しているのが分かった。
お茶をすすりながら、おれの心はしだいに沈潜していった。この後どうするのかとミナコさんに問うのではなく、おれが何をするかを決めるべき時なのだ。
「明日から、ぼくがミナコさんの家に行くよ。ぼくは、なんとしてもミナコさんを守らなくちゃならないんだから」
ミナコさんの目に、やっと笑みが浮かんだ。直ちに拒絶されるかと思っていたおれが、逆に面食らうような反応だった。
おれの内部に、確信が湧いた。道理ではなく、気合で動いたとき、パッと見えてくるものがある。その状態が、いまだった。
診断書を取って、それを楯に闘おうとしたら、たぶん負けることになる。ミナコさんを殴ってまで意志を通そうとする自動車内装会社社長に、おそらく対抗できなかっただろう。
おんなの一部分が、分かったような気がした。
暴力に対する怯えは、芯からのものなのだ。殴られて、いつまでも蒼ざめているミナコさんも、本質を目の前に突きつけられて、萎縮してしまったのだ。
「社長は、まだマンションにいるのかな」
おれの問いに、ミナコさんは首を横に振った。
「今夜、これから行って決着つけようか」
ミナコさんにぴったり付いて防御をしないと、殴られることを肯んじる女を見ることになるかもしれない。
悪夢だ、悪夢だ。もやもやした疑念の隙間から立ち昇る毒が、おれの全身を痺れさせていた。
この日は帰らないと言うので、おれはミナコさんを外に連れ出した。久しぶりに鍋横交差点を越えて、オデヲン座の向かいにある寿司屋に腰を落ち着けた。
あのままアパートに籠もっていたら、おれ自身が暴力的な気分に襲われて、惨めな状況に陥っていたかもしれない。だから、まったく馴染みのない店に入って、気分転換を図ろうとしたのだ。
「へい、らっしゃい」
ちらりと視線を飛ばした、その素早さが心地よかった。
おれは、ミナコさんの注文を仲介して、声を張った。
「へい、中トロにかっぱ巻き・・」復唱する若い衆の声が、カウンターに響いた。
「こっちも、同じく・・」続けて、おれの分も注文した。
そんなオーダーの仕方があるのかどうか、おれは酒の力も借りて、強い気持ちを保ち続けた。丁々発止の掛け合いが、他人の声のように耳をくすぐった。
翌日は、たたら出版を休むことにした。昨日の今日で、心苦しい思いはあったが、逆に疲れたといえば否応無く押し切れる状況ではあった。
「だんだん、紫色に変わってきたよ」
おれは、ミナコさんに内出血の拡がりを教えた。自動車内装会社社長への非難を口にして、いっそう憎しみを掻き立てた。
「ミナコさん、そんな顔にされたんだから、きょうは会社へ行く必要はないよ」
「ええ・・」
迷いの様子が、おれには不満だった。
「たまには、あいつを困らしてやれよ。カネの出し入れぐらいは、ゴトウさんだって出来るだろうし」
おれが強く引き止めたせいか、ミナコさんはニ三時間ぐずぐずしていたが、十一時ごろになって、結局出社すると言い出した。
「ごめんなさい。仕事のことで、どうしても行かなくちゃならないことがあるの。わかってね、あの男に引きずられているわけじゃないのよ。好きなのは、あなただけなんだから」
急に顔を近付けて、おれの頬に唇を押し当てた。
そのとき、ズームレンズのようにおれが捕らえたミナコさんの痣は、内出血の痕も一様ではなく、黒く沈着した部分と、てらてらと盛り上がった箇所が混ざり合って、無残な形状を曝していた。
「どうしても、行くのか」
おれの冷酷な声音に、ミナコさんは観念したようだ。
「すべては言えないけど、わたしの一存で操作しているところがあるの。だから、行かないと大変なことになるかもしれないのよ」
告白して、がっくりと肩を落とした。
ああ、そうなのかと、またも浅はかな対応をしてしまった自分を、嘆き、罵った。おおかたの場合、おれの理解は浅く、ミナコさんを窮地に追い込んでしまうのだ。
しかし、いまの告白が何を意味するのか、正確なところは分からなかった。お手上げのおれは、ただただミナコさんの言うことに従うしかなかった。
「ごめん、引き止めたりして・・」おれは、ミナコさんを送り出した。
「わたしを、嫌いにならないでね」
出がけに見せた悲しげな表情が、辛かった。
おれは、出かける準備をした。ジーンズにシャツの裾をたくし込み、幅広のベルトで腰に引っ掛けた。
どこへ行くという当てもなく中央線に乗ったおれは、いつもの通り飯田橋を目差している自分に気付いて苦笑した。きょうは休むと、多々良にも連絡を取ってある。まさか、会社に向かうつもりじゃないですよねと、おのれを揶揄しながら飯田橋駅のホームに降り立った。
「映画でも観よう」
直前に決めたことだった。昨夜目にしたオデヲン座のたたずまいが、頭の片隅に残っていたのかもしれない。
神楽坂方面に出る改札口を通り抜け、外堀に面した名画座をめざした。何が懸かっているかは分からないが、懐かしい名作の二本立てなら後悔することはない。
あっちと、こっち。
改札口を反対にしただけで、おれの日常を出し抜くことが出来た。予期せぬ快感が、じんわりと湧いてきた。
(続く)
「どうしたの・・」
トラブルがあったことは、現れ方で明らかだった。おれは、ずぶ濡れで転がり込んできた雷雨の時と同じように、腕を広げて受け止めようとしたが、ミナコさんは俯いたまま三和土に立っていた。
「えっ、その顔どうしたのよ」
おれは、初めて異変に気付いて、ミナコさんの顎を上に向けさせた。右目の下から頬骨にかけて、野球のボールでも当たったように、紅く腫れ上がっていた。
「まさか、殴られたんじゃないでしょうね」
おれの頭の中で、閃光が走った。「あの野郎、ミナコさんを殴ったんだね!」
地方の大学で、サウスポーの投手として活躍したこともあるという証拠の写真を、社長室で見たことがある。その、誇らしげな左手で、こともあろうにおんなの顔を殴るとは・・。おれの頭から、一瞬にして血の気が引き、思わず壁に手を付きそうになった。
(くそ、殺してやる)
口に出したらミナコさんが一番嫌がるであろう言葉は、飲み込んだ。
「こんな怪我をさせやがって・・」
すぐに、病院に行って、視神経に異常はないか、脳にダメージはないか、検査をしようと促した。
「でも・・」ミナコさんが、渋った。
数時間まえに起こった出来事が、彼女を躊躇させているのかもしれない。あるいは、痴話喧嘩のひとつぐらいに思われるのを、恥じたのかもしれなかった。
そのとき、おれはおれで、自分の心の動きを羞じていた。
ミナコさんを気遣いながらも、あわよくば診断書を取って、後の対決に備えようとする下心が動いたからだ。
「とにかく、氷で冷やした方がいい」
おれは、夏も終わり近くになってやっと購入した小型冷蔵庫から、アイスノンを取り出して、ミナコさんに手渡した。
「それで、この後どうするつもりですか」
おれの問いかけは、少しせっかちすぎたようだ。
ミナコさんは、まだ蒼ざめたままの表情をしていた。殴られたショックが残っているのか、急な判断には至らないように見えた。
「まあ、いいよ。ちょっと、一息入れようか」
おれは、魔法瓶から急須に湯を注いで、緑茶を出した。こんな時には、砂糖を添えた紅茶の方が好かったかと、淹れなおしに立った。おれ自身もけっこう動揺しているのが分かった。
お茶をすすりながら、おれの心はしだいに沈潜していった。この後どうするのかとミナコさんに問うのではなく、おれが何をするかを決めるべき時なのだ。
「明日から、ぼくがミナコさんの家に行くよ。ぼくは、なんとしてもミナコさんを守らなくちゃならないんだから」
ミナコさんの目に、やっと笑みが浮かんだ。直ちに拒絶されるかと思っていたおれが、逆に面食らうような反応だった。
おれの内部に、確信が湧いた。道理ではなく、気合で動いたとき、パッと見えてくるものがある。その状態が、いまだった。
診断書を取って、それを楯に闘おうとしたら、たぶん負けることになる。ミナコさんを殴ってまで意志を通そうとする自動車内装会社社長に、おそらく対抗できなかっただろう。
おんなの一部分が、分かったような気がした。
暴力に対する怯えは、芯からのものなのだ。殴られて、いつまでも蒼ざめているミナコさんも、本質を目の前に突きつけられて、萎縮してしまったのだ。
「社長は、まだマンションにいるのかな」
おれの問いに、ミナコさんは首を横に振った。
「今夜、これから行って決着つけようか」
ミナコさんにぴったり付いて防御をしないと、殴られることを肯んじる女を見ることになるかもしれない。
悪夢だ、悪夢だ。もやもやした疑念の隙間から立ち昇る毒が、おれの全身を痺れさせていた。
この日は帰らないと言うので、おれはミナコさんを外に連れ出した。久しぶりに鍋横交差点を越えて、オデヲン座の向かいにある寿司屋に腰を落ち着けた。
あのままアパートに籠もっていたら、おれ自身が暴力的な気分に襲われて、惨めな状況に陥っていたかもしれない。だから、まったく馴染みのない店に入って、気分転換を図ろうとしたのだ。
「へい、らっしゃい」
ちらりと視線を飛ばした、その素早さが心地よかった。
おれは、ミナコさんの注文を仲介して、声を張った。
「へい、中トロにかっぱ巻き・・」復唱する若い衆の声が、カウンターに響いた。
「こっちも、同じく・・」続けて、おれの分も注文した。
そんなオーダーの仕方があるのかどうか、おれは酒の力も借りて、強い気持ちを保ち続けた。丁々発止の掛け合いが、他人の声のように耳をくすぐった。
翌日は、たたら出版を休むことにした。昨日の今日で、心苦しい思いはあったが、逆に疲れたといえば否応無く押し切れる状況ではあった。
「だんだん、紫色に変わってきたよ」
おれは、ミナコさんに内出血の拡がりを教えた。自動車内装会社社長への非難を口にして、いっそう憎しみを掻き立てた。
「ミナコさん、そんな顔にされたんだから、きょうは会社へ行く必要はないよ」
「ええ・・」
迷いの様子が、おれには不満だった。
「たまには、あいつを困らしてやれよ。カネの出し入れぐらいは、ゴトウさんだって出来るだろうし」
おれが強く引き止めたせいか、ミナコさんはニ三時間ぐずぐずしていたが、十一時ごろになって、結局出社すると言い出した。
「ごめんなさい。仕事のことで、どうしても行かなくちゃならないことがあるの。わかってね、あの男に引きずられているわけじゃないのよ。好きなのは、あなただけなんだから」
急に顔を近付けて、おれの頬に唇を押し当てた。
そのとき、ズームレンズのようにおれが捕らえたミナコさんの痣は、内出血の痕も一様ではなく、黒く沈着した部分と、てらてらと盛り上がった箇所が混ざり合って、無残な形状を曝していた。
「どうしても、行くのか」
おれの冷酷な声音に、ミナコさんは観念したようだ。
「すべては言えないけど、わたしの一存で操作しているところがあるの。だから、行かないと大変なことになるかもしれないのよ」
告白して、がっくりと肩を落とした。
ああ、そうなのかと、またも浅はかな対応をしてしまった自分を、嘆き、罵った。おおかたの場合、おれの理解は浅く、ミナコさんを窮地に追い込んでしまうのだ。
しかし、いまの告白が何を意味するのか、正確なところは分からなかった。お手上げのおれは、ただただミナコさんの言うことに従うしかなかった。
「ごめん、引き止めたりして・・」おれは、ミナコさんを送り出した。
「わたしを、嫌いにならないでね」
出がけに見せた悲しげな表情が、辛かった。
おれは、出かける準備をした。ジーンズにシャツの裾をたくし込み、幅広のベルトで腰に引っ掛けた。
どこへ行くという当てもなく中央線に乗ったおれは、いつもの通り飯田橋を目差している自分に気付いて苦笑した。きょうは休むと、多々良にも連絡を取ってある。まさか、会社に向かうつもりじゃないですよねと、おのれを揶揄しながら飯田橋駅のホームに降り立った。
「映画でも観よう」
直前に決めたことだった。昨夜目にしたオデヲン座のたたずまいが、頭の片隅に残っていたのかもしれない。
神楽坂方面に出る改札口を通り抜け、外堀に面した名画座をめざした。何が懸かっているかは分からないが、懐かしい名作の二本立てなら後悔することはない。
あっちと、こっち。
改札口を反対にしただけで、おれの日常を出し抜くことが出来た。予期せぬ快感が、じんわりと湧いてきた。
(続く)
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