(やもめの白昼夢)
東京都の郊外に、一軒の古びた木造アパートがある。
築三十年は経っていようかという二階建ての建物で、部屋数は上下十六室ほどだ。
新築当時は、駅に近いこともあり満杯の盛況だった。
しかし、建物がくたびれてくると空室が目立つようになり、家賃を下げても人が入らなくなった。
家主の老人は、自分の寿命と不動産運用の是非を推し量りながら、勧められたマンションへの建て替えを棚上げしていた。
そんな時、思いもかけない形で部屋を借りたいとの申し入れがあった。
住まいとしてではなく、映画の撮影のため、日中の五時間ほど使いたいのだという。
老人は、一瞬宙を見て考えた。
一階も二階も、空室が目立っている。いずれ最後の一人が出て行けば、取り壊して更地にするつもりだった。
ならば、申し出に応じてもいいのではないか。
そんなわけで、住人に迷惑が掛からないことを条件に、二階の一室を提供することにした。
刺激の少ない日常の中で、まず意表を衝かれたのは、このぼろアパートを撮影に使うとの発想だった。
いったん好奇心が動くと、つぎにロケ場所として評判になるのではないかと期待が湧いてきた。
「どんな映画を撮るんですか」
八十歳目前の家主に訊かれて、三十歳代のプロデューサーは苦笑した。
「薄幸な女性が献身的な介護を続けるというカットです。独立系ですから予算を切り詰めなくちゃならないんですよ」
限られた予算の言い訳を口にした。
老人は一瞬『野菊の如き君なりき』の場面を回想し、この映画のためのニューフェイス有田紀子の顔を思い浮かべた。
たった一日分とはいっても、交渉で決まった割高の臨時収入も魅力だった。
「照明用の電源はウチのクルマから取りますし、近隣からの苦情等も出ないように配慮しますので・・・・」
前金で支払いを受けて、三日後の使用を許可した。
撮影当日、先日のプロデューサーと共に若いスタッフが三人やってきた。
カギを渡すと、さっそく階段を上がって隣接する部屋の様子を確かめた。
端の一室だけが在室中だったが、昼間は眠っているようで顔を出すこともなかった。
男たちは駐車場に中型の電源車を停め、数本の黒いコードを引っ張り出した。
脚立に乗った男と二階の窓から身を乗り出した男の協力で、窓からコードを引き込み、青いビニールシートで目隠しをした。
隣りの六階建てマンションから覗かれるのを防いだものだが、老人は自分なりの解釈をしていた。
(そうか、昭和の雰囲気を出すためには、現代的な風景が映ってはいけないのだろうな・・・・)
スタッフの動きを眼で追いながら、脳裏によみがえる木下映画の余韻を味わっていた。
準備が終わったころ、別のワゴン車が乗りつけた。
初秋だというのに黒のガウンをまとった女と、縞柄のジャケットを着た四十がらみの男が降り立った。
(俳優か・・・・)
運転手の若者は、先の尖った白い革靴を履き、見るからに半端者といった風貌をしていた。
先に来ていたスタッフが、女と四十男を伴って階段を上がった。
あとから白靴の若者が蟹股でついていった。
薄幸な少女の物語と聞いたが、見る限りそれらしい出演者はまだ現れていなかった。
「じゃあ、大家さん、これから撮影を始めますので、どなたも近づけないでください」
近くでうろうろしている老人に、部屋から出てきたプロデューサーが警戒するような視線を飛ばした。
金を払った以上、これから先は立ち入らないで欲しいとの意思が感じられた。
撮影というのは、それほどデリケートなのだろうと、家主なりに納得した。
少し離れた母屋に戻って、テレビのワイドショーに見入った。
香具師と陰口を叩かれる司会者の酒焼けした顔を見ながら、老人はお湯割り焼酎を一杯胃に流し込んだ。
三年前に婆さんを亡くして以来、昼飯前のささやかな慰めになっている。
男の子が二人いるが、結婚して独立してからは嫁さんともども寄り付こうとしなかった。
老人が特別口うるさいといった理由からではなく、ほうっておいてもいずれ遺産が入ると知っているのだ。
孫も爺さんのもとへ行きたがらないから、それも原因の一つになっていた。
そんなわけで、家主は一人暮らしに慣れていた。
自分の健康を守るために日々忙しい思いをしていたから、気にしている暇はなかったのだ。
朝は一日の食事を賄うために、飯を炊く。
婆さんの生きていた頃から玄米食に切り替えていて、そのなごりで現在も圧力鍋の世話になっている。
おかずは、納豆、豆腐、のり、わかめ、たまに鶏卵か鯵の干物で香の物を添えれば何の不満もない。
自然食を心がけてきたせいか、歳の割には足腰がしっかりしていた。
さきがけの焼酎が、この日も堅調な胃の調子を整えていた。
しっかり咀嚼したものが収まると、にわかに眠気を催した。
簡単なマッサージ機能を持つ座椅子を倒す。ちょうど後ろに位置する黒く皮脂跡の付いた長椅子が、老人の枕だった。
老人の眠りは、しばらく夢と現実の境を往き来していたが、やがて夢の側に傾いた。
再び、初々しい有田紀子の顔が浮かんできた。
病身の母親を看病するはずが、布団にすっぽり包まれているのは君子役の有田紀子の方だった。
熱でもあるのか、惚けた表情で喘いでいた。
(妙な映画だなあ・・・・)
家主の老人は、夢の中でもそぐわない思いをいだいていた。
眉をひそめた紀子を囲んで、五つの影が見下ろしていた。
影の中から三本の手が伸びてきた。そこだけライトに照らされている。
有田紀子は、布団に包まれ、渡し舟に乗せられているようだ。
水音と櫂の音がする。映画では、川の流れと山畑の野菊が印象的だった。
なんだろう?
どこかで水音が続いている。
老人の脳裏に、ふと甦るものがあった。
流しに食器を出しておいたことを思い出す。
「そうか・・・・」
ゆるかった蛇口から滴る水の音。
はっきり目覚めて、水道栓をきつく閉めた。
家主は、塵取りと玄関箒を掴んで外に出た。
外には誰もいなかった。
こっそりアパートに近づき、貸した部屋の真下に立った。
窓は青いシートで遮蔽されているが、立て付けの悪い窓からかすかに声が漏れてきた。
「あん、だめよ」
「・・・・」
「カメラ、回り込んで!」
プロデューサーの声だった。監督を兼ねているらしい。
「いや」
「そっち、持ち上げて」
「うぐ・・・・」
「顔アップ」
さすがに、大家も確信した。(こりゃあ、ポルノじゃないか・・・・)
腹を立てかけたが、腹圧がゆるんで力がはいらない。
怒るより、興奮のために力が分散してしまったのだ。
降って湧いたような愕きの体験だった。この歳になって、アダルトビデオの撮影に場所を提供しようとは・・・・。
あの男に騙されたとの思いは拭えなかったが、なぜか肩を叩きたいような親しみを感じた。
(俺が若かったら、仲間に加わりたいぐらいだ)
家主は、参加できない虚しさをいだいて、すごすごと家に引き返した。
午後四時近くになって、プロデューサーが挨拶に来た。
「どうでした?」老人は何食わぬ顔で訊いた。
「いい画が撮れました。・・・・この場所いいですね。昭和の雰囲気にぴったりですよ」
家主が口にする<昭和>に合わせた外交辞令だろうと、目を細めて男を見た。
下の息子の年齢に近かった。
こんな仕事をしていて、どう歳を重ねるつもりだろうか。
危惧する気持ちの裏から、別の言葉が出た。「・・・・それは、よかった」
男は、いま部屋を片付けていると言った。
「どれ、それでは一応点検させていただきましょうか」
老人は、プロデューサーの後ろから階段を登った。
開けたドアの向こうに、陽に焼けて波打つ畳が見えた。
無意識に染みを探して目を泳がせたが、もともと汚れていた畳はどこも黒ずんでいて見分けがつかなかった。
「道具など、忘れ物はありませんか」
「ええ、全部撤収しました」
窓を開けて、コードやシートの痕跡が残っていないか点検した。
駐車場に目をやると、今しもガウンの女優が脇を抱えられてワゴン車に乗るところだった。
「じゃあ、また・・・・」これも外交辞令だったろうか。
本当にまた借りにきたら、あらかじめ隣りの押入れに穴を開けて・・・・。
家主の老人は、また焼酎のお湯割りを作って、夕飯までの間ちびちびと妄想にふけった。
(おわり)
毎日書き継いで行くのも、結構面白いです。吊り橋など出そうとは思っていなかったのですが、つい書いてしまったら、二話ぶんも使うことになり、また、高所恐怖症だと思ってもいなかった馬九が、そのようになってしまいました。どうなるか、先が読めなくて面白いです。だから小説を書くのかもしれません。
今回の老人の話は、笑いましたが、前回の柱時計に隠れる話はよかったです。
(ガモジン)様、目くじら立てずに笑っていただけて、ほっとしました。
前回の『柱時計が止まるとき』のコメントにも感謝します。
ガモジンさんの小説『馬九』・・・・夢喰屋なる商売を考えついた想像力に舌を巻きました。(獏=馬九)本人にも分からない今後の展開、楽しみに待っております。