明け方になって「白亜」は不思議な静寂の中に居た。
いつの間にか霧が樹間にただよい、下草を覆いはじめていた。
解放された悦びの一方、かすかな後ろめたさを感じていた。冷静になった記憶の中で、彼を呼ぶ主人の声が甦ったのだ。
はっきりとは分からないが、森の空気が重く沈みはじめた頃だから、それほど時間が経ってはいない。
主人の悲しげな呼びかけが、いまになって「白亜」の心を揺らした。
「猫って、何を考えてるのか分からないよね」
いつか撮影チームの若者が言っていた。「・・・・リハの時には素直に抱かれているのに、ホンバンじゃ暴れたりするんだから」
損な役回りのA・Dがぼやくのも解からないではない。「白亜」自身、おのれの気まぐれな行動を跡付けることはできないのだ。
いまも彼は迷っていた。
まだ遊びたい・・・・。反面、主人の懐に戻るべきではないかと、可愛がられた日々の記憶を反芻した。
どっちつかずで迷ううちに、「白亜」は急に空腹をおぼえた。
昨夜、五時ごろ食事して以降、彼は何も口にしていないことを思い出した。
(腹が減った・・・・)
カマキリやコオロギを噛み殺したものの、口の中に不快な感触が残って思わず吐き出していた。
虫に比べれば、弄んで放り出した野ネズミの方が、よほど食べ物にふさわしく思われた。
先刻までの狩りの経験から、クヌギの根方に開いた小さな穴を見つめていると、お誂え向きに獲物が飛び出してきた。
一度成功してからというもの、「白亜」が何をしなくとも獲物の方から飛び出してくるのだ。
穴の近くで張り込む猫の気配に怯えた野ネズミが、緊張に耐え切れずに逃れようとして走り出る。「白亜」は小心なネズミを捕らえて、驚愕に見開かれた目を見据えた。
野ネズミの怯えを一気に噛み砕いた。熱い肉の甘みと血のしょっぱさが口に広がった。
主人が与えてくれる固形食糧と違って、新鮮な歯ごたえがあった。
こりこりと頭骨を砕き呑み込む。胴体の肉からピンク色の足、尻尾まできれいに平らげる。
袋状の黒い内臓は危険な臭いがする。肝臓からはピコピコと鼻をつく信号が発せられている。
「白亜」は、誰に教わるわけでもなく内蔵だけを残した。
満腹には程遠いが、とりあえず空腹は収まった。生肉の甘みが胃の中から送り返されてきた。
血の味が、まだ口中に残っていた。鼻の頭と口ひげが血で汚れていた。「白亜」は右手を舐めて湿らせ、顔を洗った。目の近くまで丹念に拭き上げた。
猫ながら、彼は一線を越えたことを意識した。後ろめたさは後退し、めくるめく陶酔の世界に入ったことを知った。
(ここは、俺の縄張りだ!)
黒ヒョウをイメージして交配された血筋が、旧軽井沢の森をジャングルにした。
パトカーが容疑者を連れて帰ったあと、「白亜」の主人は早速エミちゃんに電話をかけた。
その夜の顛末を興奮した様子で報告しながら、何か忘れ物をしたような感覚に付きまとわれていた。
一時間近くおしゃべりをしたあと、主人の方は腕のあたりに空虚感をおぼえ、ふと「白亜」の不在に気がついた。
不在と言っても単に身近に居ないというだけで、不審者騒ぎの最中にドアからするりと抜け出して行ったなどとは夢にも思わなかった。
「白亜、白亜・・・・」
主人はまず寝室を見回し、ベッドの下、衣装ケースの中まで覗き込んだ。
みつからないものだから、大慌てでリビングルームに移る。大小並んだ棚の上下と暖炉の中まで確認したが、「白亜」の姿はどこにもなかった。
(まさか、あの不審者が攫っていったのでは・・・・)
前後の状況を考えれば、まったく有り得ない出来事だった。
虫取りの男は、「白亜」と接触する暇がなかったはずだし、パトカーで任意同行されていったのだから、警察官に気づかれずに「白亜」を連れ去ることなどできないに決まっていた。
それなのに、一瞬とはいえ奇怪な妄想が脳裏を駆けめぐった事実は、主人のパニックぶりを物語っている。
「白亜」の失踪が確定的になると、主人は夜の森にせつない声を響かせた。猫の名を呼びながら、怖さを忘れて両隣の別荘入口まで覗きに行った。
小さな懐中電灯を持っての猫探しは、結局成功しなかった。
主人は疲れきって別荘に戻ってきた。
一睡もせずに夜明けを迎え、自治会の責任者に電話をして猫探しの名人を教えてもらった。
昼前に一人の青年がやってきた。失踪したペットを捜す専門の会社から派遣されてきたエキスパートというふれこみだった。
青年は挨拶もそこそこに薄手のカタログを取り出した。会社案内の体裁をとっているが、要は料金表と契約条件を示したもので、それを基に見積もりをして行動を開始するという段取りになっていた。
「住宅地とちがって、チラシの効果は限定的です。しかし、旧軽銀座に通じる別荘道路の要所要所に、写真と保護依頼の看板を掲示する必要はありますね。自治会の会長さんにもお願いしてみたらいかがですか」
その上で青年は、緊急かつ効果的な手段として、別荘を囲む森に入って直接捜索することを提案した。「・・・・ペットの方も、不安や空腹、冷えによるダメージを受けているはずですから、できるだけ早く発見してやる必要があるのです」
依頼者本人の気持ちを代弁する発言に、主人は「ぜひお願いします」と頭を下げた。
「ただ、この広い森で、失踪からすでに十二時間が経過しています。本来は多数の勢子を動員して山側から攻めるのがベストですが、そうもいきませんから、せめて三人で三方から包囲する形を取らせていただけませんか。一人で三日かけて探すより短時間で効果が期待できますし、料金の方も三人体制なら割引させていただきますよ」
一日10万円の提示に、カリスマ・エステティシャンは一も二もなくサインした。
そもそも「ボンベイ」種の子猫を手に入れるのに、破格の費用を払っている。それでも欲しかった猫である。
「白亜」を取り戻せるなら、チップをはずんでもいいとすら思っていた。
黒ヒョウを連想させる精悍な姿態と艶のある黒毛。ビロードのような手触りと見開いた瞳。数ある希少種の中でも、奮いつきの猫だった。
時として金色に輝くまん丸の目は、ヨーロッパ貴族の冷徹さを秘めている。従順さの裏に隠された怜悧な性質は、主人が理想とする男性観に近かった。
午後から三人体制での捜索が始まった。
主人は別荘で待機し、三人による包囲網がしだいに狭められるのを持っていた。
「白亜」は、それほど遠くまで縄張りを広げるつもりはなかった。
野生の獲物を消化して力を取り戻した彼は、めぼしい樹や柵に尿を掛け、ときどき爪とぎをして自分の痕跡を残した。
排泄物で存在を主張したり、体をこすり付けて固有の臭いをマーキングするのは、クマやカモシカでも同じである。犬でさえこの習性は変えられないのだから、野生の楔は根深いのだ。
それでも家猫のテリトリーは、それほど広い範囲を必要としない。狩場というより遊び場と呼ぶべき場所だからだ。
ただ、散歩コースとまで軽んじるのは間違いで、毎日縄張りを点検することで肩に漲るムズムズ感の解消を図っているのである。
人に飼われて何千年、消しきれない記憶を慰める儀式と見るのが、猫族共通行為の実態に即しているのかもしれなかった。
「白亜」にとってのテリトリーは、猫一般と同様せいぜい五百メートル四方もあれば事足りていた。
その日は、初の縄張り宣言を前に精力的に動き回った。ひときわ魅力的に見える樹には、他の猫以外に野生の獣の体臭が染み込んでいた。
平坦地から傾斜地の上方に向けてひと通りにおい付けを終わったとき、目の前で虹色の小動物がくねった。霧が消えたあとの樹間に、季節はカナヘビを走らせたのだ。
「白亜」は一瞬目を奪われた後、光の筋を追った。飛びついた手の下を虹のきらめきがすり抜けた。
カナヘビは山栗の幹を半周し、「白亜」の視界から消えた。
裏側に回って上を見る。四肢を広げてカナヘビがへばりついていた。
「白亜」が狙いを定めると、気配を察してカナヘビはさらに動いた。彼が樹皮に爪をかけて駆け上った瞬間、後方で大きな声がした。
「おっ、いたぞ!」
捕虫網より二回りは大きい網を持った青年が、栗の木に駆け寄ってきた。
「白亜」は反射的に人間から逃れようとした。
カナヘビのことは、頭から消えた。追うどころではなく、自分が追い詰められていた。
「みんな、こっちへ来てくれ」
青年がトランシーバーを使って、他の二人を呼んだ。
「やっぱり、テリトリー内にいたんすね」
近くで展開していた助っ人の男たちがやってきた。
「さすが大先生、ハンティング・テリトリーから出ていなかったね」
少し年上と思われる男たちが、名人と目される青年を誉めそやした。
「それはいいけど、案外これからが大変だよ」
青年は「白亜」の動きから目を離さずに言った。「・・・・こうなったら、小細工は利かないからね」
街中での捕り物なら、餌やら罠やらさまざまの手段を使っておびき寄せるのだが、樹上に登った猫を無傷で確保するには、人がその位置まで近づいて捕らえるか、あるいは揺すり落として捕獲するか、二つに一つしかないと説明するのだった。
可動式のアルミ製梯子と、落下防止のビニール製ネットが用意された。
青年ともう一人の手によって、「白亜」がしがみつく枝の下に緑色のネットが広げられた。
一方、一番身軽そうな男が、手元のワイヤーを操作して梯子を動かし、上へ延ばしていった。
ギチギチと音をたてて迫ってくる梯子を避けて、「白亜」は更に上段の枝に移った。
下を見ると、青い作業着を着た男がロープと長い竿を持って梯子を上ってくる。竿の先端には捕獲用の円い輪がついている。この輪で首をひっかけ、動きを制しようとしているのだ。
そうなれば「白亜」だって、ひとたまりもない。
あとは網に落とされるか、ロープで括られて降ろされるか、いずれも恐怖をともなう結末が予想された。
「白亜」めがけて、長竿が伸びてきた。先端の輪っかが体をかすめた。とっさに緑の葉をかき分けて梢に近い細枝に飛び移った。
「キャーッ、やめて!」
真下から主人の悲鳴が湧き起こった。「白亜、もう降りてきなさい」
連絡を受けた主人が、樹の下で成り行きを見守っていたのだ。
降りて来いといわれても、「白亜」にも為すすべがなかった。飛び移った細い枝は「白亜」の重みで撓り、小さくやわらかい栗の毬がもげて、足先から落ちていった。
辛うじて爪でしがみついている枝葉が、わさわさと揺れる。
懸垂の状態から下枝に乗り移った「白亜」は、再び起こった悲鳴と伸びてきた捕縄に恐怖し、昨夜目撃したムササビのように並立するクヌギに向かって跳躍した。
体のどこかが枝に当たったのだろうか。
それとも、彼の能力がその程度だったのだろうか。
「白亜」は、黒い塊となって落下した。落ちていく先に、恐怖にゆがむ主人の顔があった。
反射的に顔を背けた主人の肩口に「白亜」はしがみついた。クヌギと主人との区別はなかった。爪が外向し、首筋から血が滲んだ。
飼い猫に飛び掛られた主人は、腰砕けの状態で倒れた。倒れながら、獣のような悲鳴を上げた。
呆然と突っ立つ人間を尻目に「白亜」は逃げた。
戻れたかもしれない飼い猫生活が、思いがけない成り行きで遠くなったことを意識した。
二日後のテレビ撮影は変更になった。
「白亜」に代わるペットを進言する者もあったが、そうした小手先の問題ではなかった。
ひと口に言えば、主人は「白亜」の真意を測りかね、「白亜」に怯えていたのだ。(こんなに可愛がっていたのに、よりによって自分に飛び掛ってくるなんて・・・・)
ペット捜索会社との契約は、一日かぎりで打ち切った。
万が一「白亜」を保護する者があっても、引き取るつもりがないことを周囲に伝えた。
翌日、警察から、任意同行した不審者は犯意が認められず厳重注意のうえ放免したとの連絡があった。
カリスマ・エステティシャンは、報告を聞いたその日のうちに別荘をあとにした。撮影は東京のスタジオで行うことになった。
そのころ、テリトリーから大きく逸脱した黒猫は、埃に汚れた体で一キロ先をさまよっていた。
元の住処を捜そうとの気もあったが、主人の悲鳴の中に決して修復できない憎悪を感じて絶望をつのらせていった。
(おわり)
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たとえ別荘地とはいえ、こんもりとした夜の森の描写は、読んでいて胸躍らされました。
細部にわたる描写と出現する小動物も、それを助長します。
そして、野ネズミの味というのが、あたかも作者が実際に感得したようにさえ思えました。
結末は(やはりと言うか)飼い主との決別となったようですね。ただ、女主人の血を見て猫が嫌ったのか、飼い猫の野生化を女主人が嫌悪したのか、どちらに一線を敷いていいのでしょうか?
飼い猫にしては、過ぎた厚遇を受けていたわけですが、一晩で野生にかえれるものでしょうか?
いずれにしましても、作者がここまで動物の本性や本能を喝破していたのには感心しました。
なんだか新しい境地を拓いたような……。