
木登りをする月
マイナス10度が何日かつづいたあと、12月とは思えないほど寒気が緩んだ夜があった。
戸外に据えたた寒暖計の目盛りを確かめようと玄関を出てみたら、庭や畑が霜を置いたように青白い。いぶかしく思って道路にまわってみると、すっかり葉の落ちた森の樹の間から大きな月が覗いていた。
家の屋根、薪小屋、クルマの曲線、椿や薔薇、ふだん見慣れた物がどれも月明かりの中で息を潜めている。
緊張しているというのではなく、余分なものを削ぎ落とし、生き生きと呼吸をしているのだった。
「月が鏡であったなら~、恋しお方の面影を・・・・」
懐メロにこんな歌があったが、照らし照らされる関係を優雅に楽しむ文化がわが国にはあったのである。
「月がとっても青いから~、遠回りして帰ろ・・・・」
こっちの歌ならまだ新しいが、それでも古いか?
西欧では満月から狼男を生み出し、日本では満月に兎の姿をみる。
一面的に過ぎるかもしれないが、民族の違いを感じさせる部分もある。
万葉集の時代、源氏物語の時代、いずれも月が大きな役割を担っていた。月の光が持つ微妙な陰影に、心の襞を重ね合わせる遺伝子がわれわれの血の中に流れているのかもしれない。
竹取物語だって、月が生み出した想念の産物だ。
満月と竹林の織り成す夢のような世界に、幼子の感性が幻惑され心が躍る。やがて迎えに来た使者に連れられて帰っていく行き先が、大きな大きな満月とは・・・・。
切なさと悲しみの体験は、まず絵本の中にあったような気がする。
いろいろな想いをめぐらしながら、裸木の中の月を視る。
角度を変え、位置を移し、月を楽しむ。
傾いだ樹の幹をスロープに見立て、満月を昇らせるのも一興だ。
少し離して、奥ゆかしさを感じさせるのが、月への礼儀だろう。
小賢しくうろつく人間を、満月は悠然と見下ろしていた。
ここに取り上げられたのは、冬の夜の月と思われるけれど、まさに厳冬の夜、樹間から突然現れる満月は、さぞや凄艶でしょうね。読んでいてそんな感じを強く抱きましたよ。
実は小生も、先日の満月の夜、あまりの美しさのため、急いでカメラにおさめたのですが、あとで開いてみたら、あんなにでっかく見えたはずなのに点のように小さい。貴ブログではそれを表したのは、勇敢です。(お互い超望遠レンズがあればね)
たしかに満月といえどもデジカメで撮ると小さいですね。20倍ぐらいのズームで撮っても、決していまの画像の20倍には見えないことを知りました。
天体望遠鏡とは用途も目的もが違うということでしょうか。
月との距離も、眺める位置の違いも、多少のことでは変化しえないほど、宇宙は遠いのでしょう。
ただただ、夜の森の気配が感じられればと願っています。