どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (8)

2006-02-26 00:44:46 | 連載小説
 無断欠勤をニ週間続けたころ、自動車内装会社から解雇通知と給料が送られてきた。わずかだが、社内規程による一時金が付加されていた。
 現金書留の封筒の中に、ミナコさんからのメッセージが忍び込ませてあった。
 <落ち着いたら、顔をみせてね。電話してからよ>
 おれが逃げ帰ったあと、どんな顛末になったのか。少なくとも、おれが訪問したことだけはミナコさんに伝わっているようだった。
 社長の追及に、ミナコさんはどう答えたのだろう。急には状況が飲み込めず、混乱したのではないか。それなのに、怒りもせずに気配りをしてくれる。一方おれときたら、ミナコさんのやさしさに応えることもできず、ただひとり蹲っているだけだった。

 ミナコさんに顔向けできない状況は、あの日以来凍結されたままだった。
 おれは、机の引き出しを開けて、封筒を取り出してみた。
 <落ち着いたら・・>と、ミナコさんの呼びかけが、まだ響いていた。おれは、ほっと息を吐き、深夜にうなされた悲しい夢を思い出した。
 夢の中で、おれは必死になって手紙を探していた。ミナコさんからの長い長い手紙だった。だが、それがない。どこにもない。存在したはずなのに、かき消したように無くなっていた。
 マンダ書院での騒動が、幻のように感じられた。心ここにあらずの状態で、日を先送りしただけなのだろうか。しかし、おれは体を動かし、感情をむき出しにして闘った。あるいは、それが生きる力を甦らせるための、リハビリだったのかもしれない。
 <落ち着いたら、顔をみせてね>
 おれは改めて、短いメッセージを読み返した。
 あの絶望の日から二週間目に届けられた一筋の明かり。この明かりは、いまも消えないで点っているのだろうか。
 放心したような時間が過ぎると、おれの心はたった一行のメモに縋り付いた。
(会いたい・・)
 会って、謝りたい。
 傾きはじめた心のゆくえを見定めるように、おれはアルミの片手鍋を持ち上げた。使い古した割り箸が、鍋のふちでコロリと転がった。
 おれは共同炊事場に向かった。鍋底にこびりついた野菜くずを指で洗い落とした。蛇口から噴き出す水流が、おれのこだわりを洗い流してくれるような気がした。
 夜の七時になったら、電話してみようと決心する。五時に仕事を終わって、その時刻には帰っているに違いない。そして、その時間帯なら、ミナコさんはまだひとりのはずだ。社長が来るにしても、もっと遅くなってからだろう。
 おれは、思い立って、銭湯に行くことにした。
 電話をかけるまでには、まだ四時間もある。身も心も清潔にして、事にあたりたい。おれは、ビニール袋に入ったままの風呂道具を引っ張り出し、近くの朝日湯へ向かった。
 髪を洗い、鬚を剃った。二つに分かれた湯船の、熱めの方に体を沈めた。
 首まで浸かってうなっているのは、職人風の老人だ。洗い場で変形した脚を撫でているのは、長年病気と折り合ってきた年寄りだ。
 午後の新湯を目当てにやってくる常連に混じって、ただいま無職のおれがふんだんに湯を使う。限られたおれの贅沢が、おれの内部に巣食う弱気の虫を追い出していく。「いいぞ、いいぞ」と、おれだけに聞こえる掛け声にのって、背中に回したタオルを引く。右、左、みぎ、ひだり。肩から脇腹に渡したタオルに力をこめ、いっそう強く摩擦した。
 朝日湯を出ると、早くも冬の陽は傾き、薄闇が忍び寄っていた。気温も下がっているらしく、洗髪した頭皮に外気が沁みる。コインを奮発してドライヤーを使ったのに、多少の湿気は残るものだろうか。おれは首をすくめて、足を速めた。
 アパートに戻って、タオルをすすぎ、強く絞って窓の外に干す。この寒さでは乾くはずもないのだが、一連の動作がおれのリズムになっていた。
 それまで着ていたシャツを脱ぎ、洗濯したてのものに取り替える。アノラックも今日はお役御免で、よそ行きのダッフルコートを壁から外す。おれの部屋には姿見はないが、商店のガラスに映るジーンズとの組み合わせは、満更でもないと思っている。フードを被るか、被らないか、まだ電話もしないうちから迷うのを、不安な視線で見つめる自分がいた。
 大塚駅まで歩いて、駅の公衆電話の前に立った。駅舎の時計が七時を指そうとしていた。おれは受話器を取り上げ、銅貨をいくつも入れた。メモを見ながらダイアルを回すおれの指が、棒のように硬直していた。
 失敗は許されない。一度でかからなければ駄目なのだ。
 何の根拠もない運命との取り決め。しかし、おれはその取り決めに賭けていた。萎えそうになる心を叱咤して、おれはダイアルを回しきった。
 ルルル、ルルル、ルルル・・・いかにも新築マンションにふさわしい、軽やかな音色だった。
 呼び出し音が続く間、おれは息をつめていた。耳に押し付けた受話器の硬さが、親しい友の支えのように感じられた。
「はい、もしもし・・」ミナコさんの声がした。
「あっ、ぼくです。とつぜん、すみません」おれは、名前を言い足した。
「分かるわよ、元気だったの? 元気よねえ」
 ミナコさんは、本当におれのことを心配していたと言って、おれからの連絡を喜んでくれた。
 おれが反省と詫びのことばを言いかけると、それを遮って「いま、どこにいるの」と問いかけた。おれは、小学生のように声を張って現在地を答えた。
「そう。だったら直ぐに行くから、そこにいて」
「はい」と返事をして、おれは人の行き交う構内に目をやった。人の背中がやさしかった。通路から出てくる人の表情も和らいで見えた。
 たとえ何時間かかっても、おれはミナコさんを待ち続けられる。白山上からバスに乗って巣鴨で乗り換え、山手線で大塚に到る。おれのために来てくれるというミナコさんを、半日でも一日でも待てると思った。

   (続く)
 
 

 

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1 コメント

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オレの心の波動に同調、、、 (旭丘光志)
2006-02-26 13:21:21


前回ミナコさんの部屋の玄関でオレが社長と会うところあたりから、心の波動が「オレ」と少しずつ同調しはじめました。

いいぞいいぞという感じ。







そして今回同封されていたミナコさんの手紙に反応するオレとその行動で、一気に彼の波動と同調しました。

こうなればもう彼がどんなふうに動こうとも、彼の心の動きにのって、わたしはこの物語の世界を一緒に旅することが出来るでしょう。





お願い。こちらの心を翻弄してくれるような面白い小説世界を読ませてください。

期待して今後も読ませていただきます。
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