風の散歩道
吉祥寺と三鷹を結ぶこの道は
季節を問わず風が通り抜ける
晩い春にはサクラの花びらが舞い
ときには着物姿の山本有三が
道路際に建つ洋風の記念館に入っていく
風の散歩道と名付けられたこの道は
初夏には着流しの太宰治が懐に手を入れて
三鷹の方向から所在無げに歩いて来る
進行する病を慈しみ尽くしてくれる女を疎みつつ
一顧だにしない文壇の有力者を呪う日々
時はときどき時間を遡行する
『路傍の石』の吾一は現代の家庭に甦り
崩壊する家族の先駆者となる
血縁の糸は細くともつながるが
愛と憎しみは同じ糸をたどって衝突するのだ
『人間失格』の太宰治は時代の寵児になった
なのに何故死ぬ気になったのだ
三人の女への愛の揺り戻しだったのか
グッド・バイと呟きながら己の文学の死を悟ったのか
跨線橋から見る玉川上水の緑を懐かしみながら
夏目漱石の長女筆子をめぐって
松岡讓と久米正雄の恋の鞘当てが見苦しくなった夏
久米と反りの合わない山本有三は
三角関係を中傷する手紙を持ってポストをめざした
代筆させた妻への負い目をも振り払って
風の散歩道には薫風がよく似合う
それなのに順風から舞い降りた太宰は
深夜になぜ女と連れ立って玉川上水をめざしたのだ
繰り返す心中未遂事件で自分だけが生き残った
今度こそ山崎富栄の意地に引導を渡されたのだろうか
風は秋も冬も吹き抜けるが
いつも爽やかとは限らない
作家がふたり焦燥に駆られて通ったこの道は
おぞましい業が往来するヤクザな風の道
風吹かれ鴉を憐れんで木枯らしが啼く日もあるだろう
つまり、文学士は哲学士なので、いかに生きるべきかを探究する学問を学びました。
>グッド・バイと呟きながら己の文学の死を悟ったのか
太宰治も三島由紀夫も、ヘミングウエイも、
人生は、その先に何もないことを知っていたように思います。
普通は何もないことを解って、どう生きるかを考えるのですが・・・
生意気言ってすみません。
80歳になる今も現役で、三鷹の自宅から吉祥寺まで毎日自転車で往復していることが自慢です。詩の風の道を。
この3月5日その道のすぐそばの蕎麦屋でその方と仲間4人で閉店まで痛飲しました。
3年前から体内の前立腺がんと共存中の彼ですが、旧満州産の機能性食品を飲みながらこれまでと変わらず仕事に打ち込み、生活を楽しんでいます。
太宰は死に親近感をもち繰り返し試みた末ついに人を道ずれに逝ってしまったわけですが、ちょっともったいなかったかなと。
もし生きていたとしたらどんな文学的転換が見られたのか、と思うと残念です。
人は誰でもいつかは死ぬのですから、そこへ向かう道筋を見つめるのも作品の力になったと思うのですが・・・そこまで待てなかったのでしょうかね。
毎日風に吹かれていれば2~30年などすぐ経ってしまうのになあー。
いろいろな作品に接して、やはり面白いのはその部分にあるのかと思っております。
だからこそ、太宰も三島もヘミングウェイも異なる形で刺激を与えてくれるのでしょう。
死の先にあるものをどのように考えるか、なかなか見極めがつかないとは思うのですが・・・・。
死後について、仏教的な考え方と神道的な考え方に違いがあるのはわかっていても、作家の場合そこまで突き詰めて自死を選んだのか、もっと俗な世界でじたばたしていた気がして仕方がありません。
コメントをいただき、久しぶりに「その先・・・・」を考えてしまいました。
ありがとうございました。
近くの蕎麦屋さんで看板まで粘るとは、豪快で羨ましい限りです。
太宰についての考え方、含蓄に富んでいて学ぶところが多いと感じました。
ここでもまた「その先にあるもの・・・・」に思いを馳せました。
太宰文学の転換を許さない力が、その先を決めたのではないか。
待てなかったのか、許されなかったのか、落とし前を付ける時期が来ていたのは間違いないと考えています。
ありがとうございました。
名前からして文学の匂いがしそうな
素敵な名前ですね
ゆっくりと時間をかけて歩く時
いろんな文学者と遭遇するのは
風が記憶が呼び起こしてくれるからでしょうか?
単細胞の私は
素晴らしい作品を残された文学者は
これ以上の作品ができない苦痛から
自ら命を絶ったのだと長い間思っていました
そうではないのですね
突き詰めた文学者は
風の行方を早く知りたかったのかも知れませんね
とても興味深く拝読させていただきました
ありがとうございました
文学者は確かに魅力ある作品を残し、それによって多くの読者に多様な人生を考えるきっかけを与えてくれますが、人生はこうあるべきだと結論めいたことを示唆しているわけではありません。
ですから、自分の文学に行き詰まったから死を選ぶなぞということは不遜なことだと思っています。
書けなくなったら書かなければいいだけの話で、読者の側もそれ以上の作品を書けなどと言うはずはありません。
仮に熱狂的なファンがいて、その要望に応えなければならないと考えたとすれば、作家も読者もどこかで勘違いをしているのではないでしょうか。
別の方のコメントにあるように、「毎日風に吹かれていれば、20~30年などすぐに経ってしまうのに」・・・・そして作家本人が思いもしなかった変容が現れるかもしれません。
死を、人生を、見極めたから自ら命を断つなどということは、宇宙の真理(それが何かはわかりませんが)の前では甚だ軽率な行為だと感じます。
もっとも、そうした愚かさをさらけ出すことのできる作家は、愛すべき存在だと思います。
一般の人(そうした言い方が許されるならば)には、なかなかできないことですから。
ずいぶん言葉を費やしてしまいました。
きっかけを作っていただき、ありがとうございました。