水戸の城下町を少し離れたところに、鐘鳴山と呼ばれる海抜六百数十メートルの山がある。
この山の頂上近くに小さな沼があって、そのほとりに古風な社がひっそりと祀られている。
地元では「鐘鳴大明神」と呼ばれ、あたりには古木が鬱蒼と生い茂り、昼も暗く陰森の気を漂わせている。
沼は碧く、深くしずかに死の色をたたえて、大蛇でも棲んでいるのではないかと思わせるほどだ。
沼の縁の一方には、軒が傾き苔むした社の影が張り付くように映り、組み合った枝の間から吹き入る風が、ゴウゴウと重い響きをたてていた。
凄まじい気配に恐れをなしてか、普段はほとんど人影をみることはない。
ただ、陰暦七月十五日の祭礼の日ばかりは例外で、近郷の老若男女がこぞって参拝に訪れる。
その日になると、社の前では花車や見世物などが催され、夜になると麓から頂上まで提灯や松明のあかりが連なり、遠目には星のように燦いていた。
さらに丑の刻時分になると、山の奥か地の底か、どことも知れぬところから鐘の音が湧いて出る。
それこそが鐘鳴山にまつわる物語の因で、地元の住民ならずとも心の襞に深く刻み込まれるような話が伝わっているのである。
鐘鳴山を下ること一里半ばかり、水戸の城下に竹隈町というところがあり、そこに名人と呼ばれる鐘師が住んでいた。
ある年、国主の佐竹侯から、新たに建立した寺の鐘楼に吊るすべき梵鐘を鑄よと命ぜられた。
鐘師は、この上なき名誉とありがたくお受けし、さっそく鋳造に取り掛かったが、どういうわけか鑄る鐘も鑄る鐘も一つとして満足のいくものができない。
こうして五つまでは廃り物となって非常に落胆したが、国主の厳命なのでやむを得ず、奮い立って六番目の鋳造に着手した。
今度もしこれという作ができなければ、割腹してお詫びする以外に方法はないと覚悟して、着手する前にかねて信心する不動様に日参して願をかけた。
すると満願の当夜に、不思議なことだが「血を流さなければ成就しない」というお告げの夢を見たのだった。
しかし、そのお告げが何を意味しているのかわからない。
気にはかかったが、今更どうすることもできない。
もとより決死の覚悟、血を流すことぐらい何ほどのことがあろうかと、心をつよく持って鐘造りに精を出した。
すると、うれしいことに、前のものに比べかなり出来の良さそうなものを完成寸前までこぎつけたのであった。
一方、この鐘師の弟子で当年十七歳になる若者がいた。
生来手先の筋がいい若者で、時には師匠も舌を巻くほどの腕前を発揮するものだから、鐘師は二代目をこの若者に譲ろうという腹づもりをしていた。
もともと鐘師には妻も子もいなかったから、いずれ養子にでもと考えていたところもある。
そこへ殿様からの注文を受けて、主人弟子ともに力を合わせて応えようと渾身の努力を注いでいたのである。
いよいよ梵鐘が仕上げに入ろうとしている朝、折悪しく佐竹侯から急な呼び出しがかかった。
鐘師は、今日一日で出来上がるところを、心掛かりではあるが仕方がないと諦め、あとの手入れを弟子に任せて国主のもとへ向かった。
残された弟子は、七月の酷暑のなか仕事場にこもって脇目もふらず、真っ赤に焼けた鐘に手入れをしていた。
すると、不思議なことに突然耳をつんざくような響きがして、鐘の一部に大きな亀裂が入った。
意外な出来事に呆然として鐘の前に立っていると、ちょうどその時、師匠の鐘師が殿様の御用を伺って飛ぶように帰ってきた。
家に着いて、戸を開けて、この有様を見ると、カッとしてみるみる顔色が真っ青になり、ぶるぶると身を震わして「何をした? うつけ者めが!」と怒鳴りつけた。
それだけでは収まらず、若者の襟髪をつかんで、割れたまま高熱を発する鐘の中にほうりこんだ。
たまらず弟子は悲鳴をあげ、たちまち焼け死んだ。
が、若者が死ぬと、割れた部分がしっくりとくっついて、たちまち立派な梵鐘が出来上がった。
ぼんやりしていた鐘師は、目が覚めたようにびっくりして鐘の中を覗くと、弟子はもう黒焦げになって死んでいる。
(なぜ訳も糺さずに早まったことをしたのだろう)
鐘師は胸が張り裂けそうな思いにとらわれ、取り返しのつかないことをしてしまった悔恨に涙が止まらなかった。
涙ながらに弟子の焼死体を引き出し、冷めてからその鐘を叩いてみると、これまでに聞いたこともない妙なる音がするではないか。
さては非業の最期を恨みもせず、魂をこの鐘に留めてくれたのかと、いじらしさにガバッと身を伏せ、亡き弟子に詫びたのだった。
その夜のうちに屍体を鐘鳴山に運び、沼のほとりに丁重に葬ると、家に戻って鐘が出来上がった由来を細かに書き留め、そののち心静かに割腹して身の始末をつけた。
国主はやがて、その鐘を寺の鐘楼に移し撞いてみると、梵音が国中に響き渡って何ともいえぬ尊さがあるので、さっそく鐘師を鐘楼の下に葬った。
ところが、その後、夜中にこの鐘が鳴ると、若者を埋めた鐘鳴山でも同時に鐘の音がするとの噂が立った。
村の若者がこの噂を聞き、ある夜冷やかし半分に山に登ってみると、たしかに寺の鐘に呼応してものすごく鳴り響く。
そこで、このことを言上すると、初めは狐狸の仕業ぐらいに思われていたものを、ついに佐竹力之允という大剛の武士が実地を聞き確かめた結果、紛いなき事実と知れた。
そして、つまりは若者の亡霊が成仏できないでいるためであろうと解釈され、まもなく山上で千僧供養を営み、一宇の社を建てて「鐘鳴神社」と名付けた。
その日以降、呼応して鐘が鳴ることは止んだが、今でも七月十五日の夜の丑の刻には、昔ながらの鐘の音が「モウーン、モウーン」と凄みを帯びて鳴り響くそうだ。
(おわり)
(2015/08/01より再掲)
* 今回も『日本伝説集』(五十嵐力著)からの紹介ですが、若干読みやすく直しただけで、伝えられた内容はほとんど底本のままです。
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