(サレジオ修道院の松)
秋の夕暮れである。
真由美が公園通りを自転車で通りかかると、空が急に騒がしくなった。
ギャー、ギャー、アー。
新興住宅地の裏手から、鴉の鳴き声が降って来る。
不吉なものを感じ、真由美はあわてて自転車を降りた。
空を舞い、輪を描き、重なり、吹き上げる黒い影・・・・。
「オギャー、オギャー」
騒ぎ立てる鴉の鳴き声に混じって、赤子の声が聴こえる。
胸を掻きむしるような叫び声は幻聴なのだろうか。
声は肉が形づくる哀願器官から発せられるようでもあり、世間に対する騒擾器官に変じたかとも思わせる。
どちらにしても、耳をふさいでやり過ごすことができない。
塞いでも掌を透して届くであろう声を、真由美はいやいや受けとめた。
(つらいよ、うるさいよ・・・・)
上り坂を、焦って登る。
押し急ぐ脛が、ペダルに激しく当たった。
(もうっ)心の中で自分を罵った。
赤子のような声を出す嘴太鴉にも敵意をつのらせた。
あいつら、人の死を嗅ぎつけると、必ず周囲の樹に集まって来る。
ゆらゆらと立ち昇って来る魂をとらえようと、待ち伏せをしているみたいだ。
あわよくば銜え込んで、人の姿に生まれ変わろうとしているのではないか。
死んだのがどんな爺イだろうと、どんな婆アであろうと、いっさいお構いなしだ。
だけど、それが赤子だと、この世のものとは思えないほど泣き叫ぶ。
母親の悲嘆をさらに上回るほど、泣いて啼いて鳴きまくる。
アー、アー、ウギャー。
すでに子供の魂を呑みこんだのか、ウギャー、オギャーと騒ぎ立てる。
(うちの子はどこ?)
坂を登りきり、サレジオ修道院の白壁に近づくと、敷地の松の高い枝に数十羽の鴉が群がっている。
西日を受けた赤松は、胸毛を剃った紅毛人のようにピンクの肌をさらけ出し、修道院の庭に屹立している。
上空でいつまでも舞う鴉の鳴き声は、見上げる真由美の全身に悪霊のごとく降り注いだ。
産院の病室から赤子を盗まれたのは、一年前のことだった。
何者かが、生後十二日目の拓也をさらっていったのだ。
真由美にとっては初めての子供だった。
産後の肥立ちが悪く、入院が長引いたのが事件を誘発したのだろうか。
それにしても、授乳室に並べられた赤子の中から、なぜ拓也が選ばれたのか。
担当のナースが、一瞬部屋を離れた隙に犯行は行われた。
警察は、内部事情に詳しい者のしわざと見当をつけた。
ミーティングで手薄になる時刻と、通用口の鍵が壊れていたことが根拠とされた。
疑われたのは、この日の見舞客と、数年以内に退職した産院関係者だった。
通りすがりの犯人が子供欲しさに忍び込んだとも考えられるが、玄関から人目につかずに出入りできたとは信じていなかった。
警察は内部事情を知るものの犯行を中心に、線上に浮かぶ人物を片っ端から洗った。
しかし、容疑者を突き止めることはできなかった。
もちろん拓也を発見することもできない。
終いには真由美自身の境遇まで疑われ、根掘り葉掘り事情を聞かれた。
「奥さんは、旦那さんの浮気を疑っていたんでしょう?」
身籠ってから発覚した亭主の不倫と、常軌を逸した暴力が、夫婦間の深刻な対立点になっていたことを、どこからか聞き込んできたらしい。
「そんなこと、何か関係があるんですか」
「ほんとうは旦那さんの子供を産みたくなかったとか」
「・・・・」
「赤ちゃんの顔を見るのも堪えられないと・・・・」
「ひどい!」
「いや、あなたがそうだというのではなく、そういうケースが結構あるということなんです」
「だから、わたしが誰かに拓也を盗ませたと考えているんですか」
「旦那さんの浮気相手も調べましたが、アリバイがあるんですよ。となると、他にも動機を考えてみなくちゃならんでしょう?」
「・・・・」
真由美は、事件のあった日のことを正確には思い出せない。
体調が思わしくなく、授乳室の動向まで気を配る余裕がなかったからだ。
事件の幕開けは、突然やってきた。
「婦長さん!」と叫ぶ甲高い声だったことは覚えている。
真由美がさっきまで点滴を受けていた病室の前を、若いナースがバタバタと走って行った。
「婦長さん、拓也ちゃんをどこかへ連れて行きましたか」
ナース・ステーションのあたりから、緊張した声が響いてくる。
授乳室に寝かせていた赤子を、検査室か処置室に連れて行ったのかと訊いているのだ。
「どうしたの?」
質問に答える前に、婦長は異変を感じたようだ。「・・・・居ないの?」
若いナースを叱責するように、太った体を揺すって彼女を通路へ引き戻したらしい。
産院中が騒がしくなって、真由美もベッドの上で半身をもたげた。
「たいへん、拓也ちゃんがいない。あなたたち急いで外を捜して!」
駆けつけた数人のナースに指示して、洗面所、リネン室、そして玄関外の植え込みまで調べさせた。
その時にはもう、真由美も授乳室に駆けつけていた。
パジャマの上からガウンをひっかけ、不安な表情でわが子が寝ていたベビーベッドを覗きこんだ。
「拓也!」
勘が働いたのか、真由美はリネン室の先にある通用口方向へ走って行った。
母親の第六感が、多くの眼をかすめて行われた犯行の匂いを感じ取ったのかもしれない。
「お母さん、無茶しないでください。後はわたしたちが捜しますから・・・・」
婦長の阻止も耳に入らないかのごとく、通用口のドアノブに手をかけた。
「あっ、わたしが・・・・」
駆け寄った主任のナースが、思い切りドアを引いた。
夕暮れの空気がさっと流れ込み、宙に浮いたような非常階段の手すりが、錆をまとって赤黒く地上へ伸びていた。
通報で刑事が駆けつけてきた。
同時に鑑識の係員も現れ、関係者に状況を訊きながら病室から通用口まで指紋採取の作業に取り掛かっていた。
外では多くの警察官が聞き込みに走り回り、周囲の幹線道路では不審車両の検問体制が敷かれた。
真由美はスリッパのまま外へ飛び出そうとして、婦長に止められた。
「放して!」
暴れた拍子に、下腹部に痛みが走った。
出血がぬるりと太股を伝った。「・・・・拓也」
身の内から、何かが抜け出ていくのを感じた。
真由美の分身ともいうべきものが、まだ存在の容を明らかにしないまま、深い闇に落ちていくのを見送った。
(罰だろうか)
なぜ、そのような感情を抱いたのだろう。
後に刑事に追及された時には怒って見せたが、子供を奪われた瞬間から運命に仕返しを受けたような罪悪感を覚えていた。
(亭主を憎んでいるからだ・・・・)
その男は真由美を風俗店で働かせ、気に入らないと引きずり倒して殴る蹴るを繰り返した。
亭主たる男は、うずくまる真由美を有無を言わせず凌辱した。
真由美が妊娠四か月目を告げると、「すぐに堕ろせ」と喚いた。
「堕ろすのはいいけど、一緒にお医者さんまで行ってくれる?」
真由美の一言で、男はたじろいだ。
亭主の同意がないと処置できない決まりを、いやがうえにも悟らされたのだ。
「まあ、いいか・・・・」
男はニヤリと笑って、「孕み女とやるのも悪くねえや」とうそぶいた。
まだ安定期に入る前から、亭主は宣言通り真由美を思いのままにした。
死に物狂いの拒絶に嫌気がさしたのか、男はどこかで知り合った女のもとへ転がり込んだ。
たまに帰って来る時は、カネの無心のときである。
そうした男とのつながりに、真由美の心は乱れた。
あのケダモノに責められなくなってホッとしたと思う反面、やはり浮気相手の女が気にかかった。
お腹の子は、何とか真由美の子宮にしがみついている。
始末に負えない父親のタネであるだけに、不憫さが増す。
同時に、ケダモノのような男と暮らしてきた自分におぞましさを感じていた。
腹の中から何もかも掻き出して、浮気相手に振り撒いてやりたい。
憎しみが高じて、亭主ともども盗人女を包丁で刺し殺してやりたいと思った。
拓也の誘拐事件は、極秘捜査で手掛かりが得られず公開捜査に切り替わった。
報道各社が殺到し、一週間ほど犯人像やその目的が取りざたされたが、プロファイルも出尽くしたあたりで、下火になっていった。
『都会の神隠しか?』・・・・週刊誌の見出しが、捜査の行き詰まりを示唆していた。
興味本位の風が吹き抜けた後には、プライバシーを踏みにじられた真由美が悄然と立ち尽くした。
季節は秋から冬へと移り、やがて春になっても拓也は戻ってこなかった。
週に一度、駅前の精神科医のもとを訪れる真由美の心は、日が過ぎるに従って変化していった。
「あの子は、鴉にさらわれたのよ」
親から疎まれた悪いタネは、早かれ遅かれ淘汰されることになる。
大きな災いを招く前に、天意を託された誰かが拓也を攫って行ったのだ。
(悲しむことなんかないわ。わたしのせいじゃないんだから・・・・)
産院側は、自らの責任を感じてかなりの賠償金を支払った。
たちまち亭主が嗅ぎつけて、全額奪おうとした。
「離婚届に判を押して頂戴。そうすれば、半分あげるわ」
裁判所や弁護士の管理下にあるカネだということををほのめかすと、ここでも男は大人しく引き下がった。
拓也は真由美と亭主の二人に属するものだから、賠償金を半分渡すことに悔いはなかった。
むしろ、これを機会に男と別れられたことが幸運だった。
当面、生活の不安はなかった。
慎ましく暮らしていれば、二年ぐらいはもちそうだった。
産院のあるJR駅方面ではなく、反対側の私鉄駅周辺へ出ることが多くなっていた。
マクドナルドでマックランチを注文し、精神科医の予約時刻まで二時間ほどそこで時間をつぶす。
カウンセリングを受け、支離滅裂なことをしゃべって薬を処方してもらう。
「今日は別なクスリを出しておきましょう」
真由美の症状に疑いを持たない医師と、自分の心を回避する患者の合意ができている。
「拓也はもう生きていない、鴉にさらわれたの・・・・」
取り乱して見せればその旨カルテに書きこんでいるし、その他何を言っても事件による精神的後遺症と診断するのだ。
夢遊病者のように精神科医の玄関を出て、愛用のママチャリにまたがる。
普通の主婦に戻って、晩飯用の買い物を済ませる。
そして緩やかな上り坂を登ると、勾配のきつくなるあたりで自転車を降りる。
(鴉のヤツ、あんなに騒いで・・・・)
異変を連想させる鴉の乱舞に、真由美の足は住宅地の裏へ誘われる。
サレジオ会を宮崎に持ち込んだ宣教師たちなら、わたしの引き裂かれた魂も救ってくれるだろうか。
(ドン・ボスコ)
神隠しの主は、あなたですか。
曖昧なままでは、わたしの精神がズタズタになる。
サレジオ修道院の壁際にたたずんで、真由美はわが手でわが子の始末をつけた。
どこかのマンホールか、都会の川の淀みに、拓也を投げ入れる女の後姿を見つめていた。
(その女は、誰?)
いうまでもないことよ。
悪いタネを屠る使命を受け入れた女が、鴉の群れに加わった。
「カアー、カアー、ギャー」
ほれ、赤子の魂を奪いあえ!
「アー、ウー、オギャー」
鳴き声をまねながら、トートバッグから取り出した食パンを千切って塀の向こうの松の根方に放り投げる。
紅毛人のような肌をたどって上空を見上げると、折り重なる松葉の上、癖枝をグヮッとつかんで鴉たちは下方の出来事など見向きもしない。
(いずれ、気がつくわよ)
その場に立ちつくしたまま、拓也の持つ劣勢因子がやがて鴉に引き裂かれ、振り回されるのを見届けようとしていた。
(おわり)
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ヒャー、怖いねー。男が憎けりゃその男との赤ん坊まで憎い・・・そうなっちゃうのかなあー。
その狂気のような世界は女にとって心の中のことなのか、はたまた女の現実なのか。
「言うまでもないこと」とはどっちなんだろう。
窪庭さん独特の世界だなあー。
名前が知れるのは、真由美と拓也だけで物語が展開していくわけですが、浮気男も主要な人物。
でも、なんだかもっと恐ろしいのが一群の鴉でしょうか。
だけど、作者は最後まで誰をも特定せず、幕切れを迎えてしまう。
やるせない読者……がそこにいる。
作者のその創造性と構成力に脱帽します。
好きな男に気に入られたいために、子供を虐待したり殺したりする傾向は近ごろの風潮かと思います。
一方、子殺しに通じる別の理由として、本作のような男への嫌悪や敵意も存在するのではないでしょうか。
もっとも、現実の事件の背後にはもっと複雑な「揺らぎ」があるような気がします。
誘拐をきっかけに、ぐじゃぐじゃの現実からの逃避という手段を発見した主人公は、自裁のポーズを採りながら、「狂気」に逃げ込んだ・・・・それがテーマです。妄想の自裁でしか解決できないのです。
こうした設定は、ぼくの妄想でしょうか。
コメントありがとうございました。
いつも紛らわしい結末ですみません。
現実進行の事件は「誘拐」で、まあ迷宮入りという構造になっています。
その意味では、犯人も特定されず不満の残る幕切れかと思います。
一方、亭主との関係もあって心の奥では負担に感じていた子供が、神隠しのように誘拐され、嘆きながらも破綻寸前の精神の逃げ場ができたわけです。
テーマでもあるのですが、真由美にとって妄想の自裁が救いであり、鴉は妄想の担い手なのです。
子殺しという狂気を、どう捌いたらいいのか、一応「揺らぎ」の中の結末を提示したつもりですが、受け取りかたはさまざまかと思います。