バックヤードの一角で、いきなり爆笑が起こった。
惣菜部主任の丸山は、パソコンから顔を上げて声のした方向に目をやった。
朝から揚げ物の調理にたずさわっているパートの主婦たちが、のけぞるように身をそらして笑っている。
4,5人の女たちの視線は、揚げ物を調理中の千恵子さんの背中に向けられていた。
「どうした、何があったんだ」
丸山は、千恵子さんの身を気遣って主婦たちに近づいた。
日ごろから無口で知られる千恵子さんのことを、みんなでからかっているのではないかと心配したのだ。
丸山の声が聞こえているはずだが、千恵子さんは振り返ろうとしなかった。
自分が原因で爆笑が起こったことを充分に意識していながら、職場の雰囲気に容易に入り込まない習性が彼女を支配しているように見えた。
「もうすぐ昼の総菜目当ての客が来るからね」
言外に、ダレてる暇はないよと釘を刺して、丸山は帳場の方へ戻った。
本当は爆笑が起こった原因を知りたかったのだが、女性同士の話題の中へうかつに踏み込むことに躊躇した。
(まあ、そのうちわかるだろう)
いじめやいがみ合いといった様子ではなかったから、余計な口出しを控えることにしたのだ。
そのうち・・・・と思っていた爆笑の原因は、まもなくパートの主婦の一人によってもたらされた。
丸山が惣菜の欠品チェックのため売り場に出ているとき、ちょうど野菜コロッケを補充に来た古株の主婦が「あ、主任・・・・」と彼を呼び止めた。
「はいよ、コロッケ好調だね。どんどん頼むよ」
「千恵子さんたらねえ、ゆうべのニュースの詐欺男のこと、そんなにいい男ならわたしも騙されてみたいなんていうのよ」
「えっ、あの国際線パーサーを名乗る詐欺師?」
「そう、いい男だけど女に貢がせるなんて最低ね、と騒いでいたら、無口の千恵子さんがいきなり反応したのよ」
「へえ、それで爆笑したのか」
「主任、気になってたんでしょ?」
(まあな・・・・)という感じで手を挙げて、先にバックヤードに戻った。
千恵子さんは、まだ揚げ物をあげていた。
その背中にチラリと目をやって、このひとがねえ・・・・と心の中で呟いた。
(女はなに考えてるかわからない・・・・)
平台で練り物を丸めているグループの女たちも、興味の中心はオトコについてなのだ。
韓流ドラマの登場人物やKポップの4人組にはしゃいでいたことがあったから、このオバちゃんたちは根っからのミーハーといってもいい。
普段から臆面もなく卑猥な話題に笑いあっている主婦たちにとって、無口の千恵子さんがポツリと漏らした一言は、想像もしていなかった衝撃なのだろう。
驚きであると同時に、ふっと気の抜けるような安堵感をもたらすものであったかもしれない。
千恵子さんからパートを辞めたいと連絡してきたのは、そのことがあってから3週間ほど過ぎた月曜日のことだった。
「えっ、急にどうされました?」
丸山は、受話器を耳に当てたまま正面のローテーション表に目を凝らした。
幸いなことに、月曜日は別の主婦の名前が入っている。
「はい、はい。ええ、ご主人が入院されるんですか。・・・・しばらく付き添いでということですね」
病名をはっきり告げてきたので、それ以上深く詮索するつもりはなかった。
「それは大変でしょうが、治られたらいつでも復帰してください。みんな待ってますから」
ありきたりの返答をする自分にしらけながら、今度の給料日にこれまでの給金を振り込むことを伝えて電話を切った。
最近はパートの募集もなかなか思い通りにいかなくなっていた。
普段から家事に慣れている主婦だから、スーパーマーケットの総菜づくりなどうってつけじゃないかと思いきや、逆に敬遠されがちなのだ。
時給水準と若干の手当てで人手不足という事態は免れているものの、急な欠員はやはり困った出来事であった。
さっそく本部に連絡して、人員のやりくりを願い出た。
対応が早かったので、3日後には新人が配属されることになった。
それまではローテーションを組みなおして、態勢を整えていくことにした。
千恵子さんのやっていた仕事は、油跳ね防止のため他のパートよりも負担の大きい服装になる。
誰からも敬遠されがちで、丸山が頭を悩ましたのもそのポジションについてだった。
ベテランの主婦を説得して、短期間担当してもらうことにした。
いずれ後釜を養成しなくてはならないから、悩みを先延ばししただけだ。
あらためて千恵子さんの退職が恨めしかった。
どうにもならないのに、千恵子さんのことをぼんやり考えていることが多かった。
(ばかばかしい・・・・)そう思いながら、丸山は惣菜部主任という立場を超えて、千恵子さんの存在を意識し始めていた。
亭主が肝硬変で入院したという話が事実ならば、いずれ千恵子さんが独り身になることもあり得る・・・・。
そうなると、2年前に離婚した自分と同じような境遇ではないか。
(えっ、何を望んでいるんだ、おまえは?)
妄想に近い思いが胸をよぎることに、彼自身があきれかえっていた。
人員のやりくりがなんとか落ち着いたある日、丸山は久しぶりに休みを取って新宿の繁華街まで遊びに出かけた。
彼の職場は東上線沿線にあり、職場の近くにマンションを借りていたから、どちらかというと新宿はなじみの場所ではなかった。
職務がら休み返上で頑張ることも多かったから、かさ上げされる残業代で懐は潤っていた。
年齢的にも脂の乗り切った時期で、それなりに欲求もあったし、学生時代を思い出して新宿の盛り場を覗く気になったのだ。
新宿駅東口を出て広場を横切り、自然に歌舞伎町を目指していた。
消長の激しい飲食店街は、ほとんどが見覚えのない看板に変わっていたが、とんかつ茶漬けの「すずや」が営業を続けているのは心強かった。
(あとで寄ってみるか)
まだ昼飯には早い時刻だったので、ふらふらと一番街辺りを歩いてみた。
何をしたいという目的があるわけではなく、何年かぶりの町の変化を肌で感じてみたいという思いがあった。
何年か前にコマ劇場跡に新しいビルが建ち、ゴジラの頭が設置されたというので話題になっていた。
気にはなっていたが、仕事が忙しかったし、それにもまして家庭のごたごたに疲れて街歩きどころではなかった。
丸山の学生時代は、映画を観るのが一番の楽しみだったから、ピカデリー劇場やミラノ座で洋画を中心にハシゴすることさえあった。
他に世話になったのは居酒屋と遊技場だったろうか。
「丸山、何か臭わないか。・・・・これ、ローションと精液の混じったにおいだろ?」
風俗の店もあちこちにあったから、路地裏のドブから立ち上る独特の臭気は、たしかに友人のいうとおりだったかもしれない。
その友人とは、パチンコやスマートボールで時間をつぶすことが多かった。
当時はまだ10円麻雀の看板を出した店があって、やってみようかと誘われたが入店まではしなかった。
たいがい雑居ビルの2階か3階だったから、迷い込んでしまうといざというとき逃げ出せない恐怖心もあった。
臆病な性格が、好奇心の裏で自尊心を傷つけていた。
歌舞伎町には、時間を超えていろいろな思い出が詰め込まれている。
来たかったような、来たくなかったような感情が記憶として残っている。
(もう、ひと昔か・・・・)丸山の目に、新旧の風景の軋轢とでもいうべき苦い汁が湧き出てきた。
本来、胃液に近いものが涙腺を伝ってにじみ出てきたような感じだった。
独りよがりの感情に襲われて、丸山は思わず洟をすすった。
ゴールデン街の一角で立ち止まり、向かいの小路に目をやった。
何かを見ようというのではなく、ただ茫然と突っ立っていたのだった。
目の端で、一瞬動くものがあった。
数十メートル離れた立て看板の陰で、衣服の裾が揺れたのだ。
丸山は白っぽい帽子の下から、彼の方を凝視する視線に気づいた。
(えっ、街娼?)
風俗店に所属しない女たち、たとえば主婦売春などは自ら客を選ぶために独自の場所に立つのだと聞いたことがある。
夕方から夜にかけては、組織に管理された娼婦の縄張りだから、午前中から姿を見せるのは素人さんの可能性があった。
丸山はドキッとしたまま、帽子のつばに隠された女の顔を確かめるように見返した。
すると、あわてて横を向き、女が逃げるように立ち去った。
「あっ・・・・」千恵子さん。
確信は持てないが、旦那の看病のために辞めた無口の千恵子さんのような気がした。
漠然とだが、後ろ姿が似ていた。
ふだんは、厚手のエプロンを身に着けていたから印象はやぼったかったが、私服に着替えると別人のようにほっそりとしたスタイルになる。
ロッカールームから出てきた千恵子さんとすれ違ったとき、丸山は「ほう、見違えた」と感嘆の声をあげたことがある。
彼女は戸惑ったように丸山を見つめ、言葉を返すことはなかった。
千恵子さんへの称賛の気持ちがうまく伝わらなかったのかと悩んだが、救いは千恵子さんの額がぱっと赤らんだように見えたことだ。
(気のせい、気のせい)
あまり深入りするのを諫める気持ちで、丸山の方からその時の出来事を遠ざけていた。
しかし、いま立ち去った女の後ろ姿を目で追いながら、やはり千恵子さんだったのではないかと思いなおした。
病院代がかさんで、やむを得ず街角に立つという状況に陥っているのではないか。
心配だった。
歌舞伎町は、一筋縄ではいかない街だ。
ここへ来ると、地場が狂ったようになり、感情のコンパスが揺れ動く。
丸山は疲れを感じて、「すずや」で昼飯の計画を放棄した。
(とにかく腰を下ろしたい・・・・)
何度か行ったことのある喫茶店が頭に浮かんだ。
西武新宿駅の北口近くだ。
彼の予想通り、喫茶店は営業していた。
鉄道の乗降客がひっきりなしに出入りする落ち着きのない店だが、椅子に腰を下ろしてしまえばわが世界になる。
丸山はコーヒーとドライカレーを注文したあと、彼の視線を逃れるように立ち去った女の正体について思いをめぐらした。
(あの後ろ姿は、ぜったいに千恵子さんだったよ)
あらためて、自分の判断を強く後押しした。
持ちにくいスプーンを何度も口に運んで、自分の思いを咀嚼した。
最後にぬるくなったコーヒーを飲み干して、さてと腰を上げかけた。
その時、丸山は肩にふんわりとした圧力を感じた。
同時に「主任、いいですか」という声が耳を擽った。
やはり、千恵子さんだったのだ。
「ああ、あなたでしたか」
ついさっき目で追った後ろ姿の女性が、忽然と姿を現した瞬間だった。
「どうぞ、そちらへ」
動揺を隠そうともせず、彼は向かいの椅子をすすめた。
すかさずウェイトレスが寄ってきて、注文を書き留めた。
「わたしも、ホット・・・・」
千恵子さんが、帽子の下からいたずらっぽい目で丸山を見た。
「主任、気づいてました?」
単刀直入だった。
「いやあ、もしかしたら・・・・とは思ったけど」
「わたしは、少し前から」
「悪い人だ」
幾つもの思いが込められていた。
「実はわたし、勧誘していたの」
丸山に何かを訊かれる前に、急いでしゃべっちゃおうとする焦りがあった。
「なんの勧誘?」
「これです・・・・」
千恵子さんは、足元に置いたトートバックから、チラシを取り出した。
丸山は、千恵子さんから渡されたチラシを手に取ってしばらく眺め、「そういえば、旦那さんは退院されましたか」と訊いた。
「・・・・病院で亡くなりました」
チラシに記されたキリスト教への誘いの言葉が、テーブルの上でメニューのように伏せられた。
「そうですか、何も知りませんで」
「いえ、どなたにも通知しませんでしたから」
二人とも緊張が解けて、フーッと息を吐いた。
同時だったので、思わず顔を見合わせた。
「ケイタイの番号、交換しましょうか」
「ええ」
「ここは、ぼくが払います」
「もし、嫌でなかったら、教会をごらんになりませんか」
「いいですよ。千恵子さんについて行ってみようか」
彼女が、本当にキリスト教の信者勧誘のために街角に立っていたのか、まだ疑いが残っていた。
丸山も勧誘のための家庭訪問を受けたことがあったが、いずれの場合も女性が何人か連れ立っていた。
(一人というのは、どうなんだろう・・・・)
丸山は、千恵子さんと職場での関係以上に親しくなった気がした。
(オレは前から、この人を好きだったんじゃないか)
ちょっとばかり弾んだ気持ちになって、いそいそと千恵子さんと肩を並べた。
一歩下がって、新大久保方向へ先導する千恵子さんの背中を眺めるワルサもした。
白い帽子、レースのブラウス、ベージュのスカート、「あの時より、もっと見違えた」
ロッカールームの近くで称賛した彼の言葉を思い出したのか、千恵子さんがフフフと笑った。
(おわり)
ちょっとチャーミングな短編ですねですね
平凡な男の夢のような・・・・
・・・頑張っています、
その一つが、偶然の機会を得てあからさまに立ち上がる。
女が漏らした思いの欠片が伏線となって、男と女の関係がしだいに濃密になっていく。
そんな小説を書いてみました。
コメントありがとうございました。
これからどのように展開していくのか、注目しています。