ちょっと怖い話を思い出してしまいました。
もっとも、怖いと思ったのはぼくだけで、他の方にはどうということもないかもしれませんが・・・・。 まあ、怖いか怖くないかは最後にご判断ください。
その出来事があったのは、かれこれ三十年も前のことだったでしょうか。
当時ぼくは伝統ある製薬会社の営業マンをやっていまして、漢方薬の販売先拡張のために関東以北の県をを飛び回っていました。
本社は東京の赤坂にあり、昼間は都内でさまざまな打ち合わせをしたあと、夜には寝台特急で青森へ向かう予定になっていました。
予約していたのは上野発の「はくつる」で、確か夜十時前後の出発だったと憶えています。
急行や寝台車など列車での移動には慣れていましたから、あらかじめ構内の売店で弁当と缶ビールを買い込みました。
寝台車両が機関車に押されて入線したあと、車内の清掃点検にしばらく時間が割かれます。
チェックが終了するのを待って、ぼくはさっそく開放型B寝台の上段ベッドに収まりました。
ウィークデイのせいか全席が埋まっている様子ではなく、ぼくの下段のベッドは発車後もしばらく空いたままでした。
これから向かう旅先の風景は、明日の朝までお目にかかれませんので、とにかく眠るのが一番と考えておりました。
ぼくはいつものように缶ビールを開け、ぐいぐいと喉に流し込みました。
アルコールの力を借りて熟睡する・・・・それが最近の習慣になっていました。
セールスの成績表に脅かされる日常から逃げ出すには、アルコールの効用は身にしみて有難いものでした。
唯一ビールの弱点は、遅かれ早かれ尿意に悩まされることでした。
しかしこの夜は下段ベッドが空いたままなので、気兼ねなくトイレに行けると思い安心して眠りに就けました。
やっと残暑も下火になり、狭苦しい車内もそう蒸し暑くはありませんでした。
あるいは空調のせいだったかも知れませんが、ぼくは備え付けの毛布を腹のあたりに掛けて寝息を立てていたようです。
枕の下から伝わって来る車輪の音が、心地よいリズムとなって神経をほぐしてくれました。
ゴトン、ゴトン、ゴトン・・・・。
なんと気持ちの良い間合いでしょうか。
ぼくは眠りの中で、以前にもこのような気分に浸ったことがあるのを思い出していました。
それは、信州の母の実家でのことだったと思います。
木漏れ日が射し込む座敷で、川遊びに疲れた体を休めていた夏休みの記憶でした。
二時間ほどの午睡から覚めつつある時、強弱をつけて耳に届く蝉の声を聴きながら、ぼうっとしている気分に似ていました。
一度寝返りをうったとき、枕元のごみ袋に手が触れました。
そのビニール袋には、ビールの空き缶と食べ終わったツマミの残骸などが入っていました。
急にヒューッと空気が抜ける音がしたので、ぼくは驚いて眠りから浮上しました。
もう一本買っておいた缶ビールが、何かの加減で空いてしまったのかと慌てたのです。
しかし、すぐに車両の仕切り扉が開いて車掌が入ってきたのだと気づきました。
一瞬ですが、レールのつなぎ目が起こす擦過音が高くなったからです。
車掌はB寝台の上下ベッドをそれとなくチェックし、未販売の席が不正に使用されていないかどうか確かめていたのだと思います。
ぼくは、車掌が次の車両に移ったころを見はからって梯子を降りました。
下段のカーテンは開いたままで、やはり誰も乗ってきてはいませんでした。
ラッキーと思いましたが、次の停車駅から乗り込んで来ることもありますから、そうそう喜んだわけではありません。
ともあれ、今のうちにトイレを済ませてしまおうと、ぼくは連結部に近いスペースに設けられた洗面所横の引き戸に手を掛けました。
ちょうどカーブに差し掛かったのか、ぼくの身体はよろけるようにトイレの中へ押し込まれました。
ガチャンと引き戸をロックした後、我慢していた生理現象を思いきり開放しました。
ふうっと息を吐き、あまりの心地よさににんまりとしてしまいました。
この光景を誰かが目にしたら、変な奴だと思ったに相違ありません。
ぼくは隣りの洗面所に移り、正面の鏡で自分の顔にさっきの無防備な笑みが残っていないか点検しました。
気のせいか、アルコールと眠りによる弛緩に混じってニヤけた笑みの痕跡が残っていました。
最近サービスを受けた吉原の風俗嬢の表情が、ぼくの顔とダブって浮かび上がります。
これから行く東北でも、仕事の苦労とは別に楽しみが待っていると思うと、体の芯に力がみなぎってきます。
ぼくは蛇口に手を伸ばして水を出し、脂ぎった顔をブルブルと洗いました。
汗と排気ガスで汚れた皮膚が、ひとしきり甦ったような気がしました。
帰りがけに腕時計を確かめると、もうすぐ日付が変わろうとしていました。
いつの間にか二時間近くが経過していたのです。
最初の停車駅大宮はとっくに過ぎていて、間もなく宇都宮に到着する時刻ではありませんか。
下段ベッドに大宮からの乗車客はなく、次の宇都宮でも乗り込んでこなければ、そのまま盛岡まで空席のままになりそうでした。
ぼくは身も心もすっきりした状態で、再び上段ベッドに這い上がりました。
もそもそと身体の収まりを直しているうちに、宇都宮到着を告げるアナウンスがホームから流れ、人の出入りする気配が伝わってきました。
この車両に乗車客があったのかどうかはわかりませんが、ぼくの近くでは足音も聞こえませんでした。
ぼくは、そのまま安心して深い眠りに引き込まれて行きました。
どれほど過ぎたころでしょうか、ぼくは夢とおぼしきものを見ていました。
暗闇の中で何かがうごめき、恨みをこめたような呻き声をあげているのです。
はっきりと視ることはできませんが、微かに鼻を衝く異臭の中で牛のような動物の群れが苛立ち、体をぶつけ合っている気がしました。
ウモーッ、バリバリ・・・・。
人間の感情に入り込んでくる、得体の知れない生きものの息遣いが生臭く感じられました。
寝台特急の移動にともなって、立ち現れるシーンが代わって行きます。
そのうちに、車内から泣き声とも歯軋りともとれるような声が漏れてきました。
ぼくはかなりの速さで宙を飛んでいて、暗黒星雲の中を突き進んでいるような気分でした。
寝台車の天井近くに籠った匂いや音が、ぼくの眠りの中枢へ降りてきて悪戯しているのでしょうか。
異次元世界に入り込んでしまったのかな、といぶかしんだほどでした。
ですから、ぼくは、その先に現れる何ものかを怖れつつ期待するような心持ちでした。
グワーン、ゴオーツ。な、な・・・・。
ハハハハ、ヒヒヒ。
今度は動物的な気配ではなく、明らかに人間が縺れあっている濃厚さが伝わってきます。
誰かの睦言だろうか、あるいは紛らわしい寝言ではないかと疑いました。
悪夢に引きずり込まれていて、そこから逃げ出そうともがく恐怖の声だったかもしれません。
(車掌は何をやってるんだろう?)
ぼくは何にも気づかない車掌に腹を立てていました。
真面目に仕事をしているのかと、頭の中で半ば罵っていました。
「は、早く口をふさげ!」
苛立ちの頂点で、感情を爆発させてしまいました。
ぼくは、自分の声で飛び起きました。
シマッタ・・・・。
誰かが目覚めて騒いだらどうしようと、ぼくは身のすくむ思いでした。
しかし、ぼくの心配に反して車内は寝静まったままです。
線路のゴトンゴトンという音だけが、鼓動と競うように聞こえていました。
ぼくはすっかり醒めてしまい、カーテンを開けてしばらく車内の気配を窺っていました。
ぼくの勘では、「はくつる」は郡山から福島への中間点を走っている時刻だったと思います。
以前にもこのあたりを通過したとき、目覚めの際で何か異様な気配に襲われたことに思い至りました。
取り立てて恐怖というほどではありませんが、不気味な思いを感じたのは二度目だったのです。
ぼくは現在独身を通しておりますが、一度結婚したことがあります。
その女性の名は美登利といい、郡山市の出身でした。
ぼくは福島県にもいくつかの得意先があって、美登利は郡山の目抜き通りにある薬局の看板娘でした。
長女の美登利と二女の小百合の間には長男がいて、姉妹の歳の差は六歳ほど空いていました。
相手方の両親にしてみれば、すでに後継ぎになる男子がいたので、ぼくは娘の結婚相手として魅力的に見えたのかもしれません。
社宅住まいだからと躊躇するぼくに、娘名義のマンションを購入して新婚生活を後押ししてくれたのでした。
もともと長野県の寒村から出てきたぼくにとって、妻の実家からの援助はありがたいものでした。
しかし、子供ができないまま三年が過ぎ、互いの欠点が視えはじめると口論の回数が増えていきました。
甲斐性がないんだから・・・・。
マンションを与えてくれた両親を自慢する妻の態度と、反面ぼくを見下すような無神経さが、鼻もちならないものに思えてきました。
ぼくは腹いせに出張先での放蕩を繰り返しました。
妻もぼくとの接触を忌避している気配があり、その点では相討ちの感じでした。
翻って新婚一年目のころを考えると、冷え症の妻に効く漢方薬として桂枝茯苓散や当帰芍薬散などを勧めていましたが、子宝には恵まれなかったのです。
美登利は肩コリ頭痛などを訴えるほか、婦人科的症状にも悩んでいる様子でしたので、親身になってアドバイスしたつもりでしたのに・・・・。
結局ふたりの間にどこかしら意識のズレがあったのでしょう、あるとき妻は決定的な言葉を口にしたのです。
「あんたの会社の漢方薬、ぜんぜん効かないわ。インチキじゃないの?」
それはあたかも、ぼくの人間性にまで及んでくるような言い方でした。
「わたしに不満があるなら、別れてもいいのよ」
どうせ出来ないだろうと、タカを括った言い方でした。
ぼくはムッとして黙りこくり、煮えたぎる思いを腹の中に収めました。
具体的なたくらみは思いつきませんでしたが、口惜しさが胸の下から突き上げてきました。
ぼくが妻の妹を呼びだしたのは、次の出張に出た翌週のことでした。
「小百合ちゃん、訪問先がキャンセルになって空き時間が出来ちゃったんだけど、ちょっと出てこれないかな?」
ぼくは郡山の駅ビルにある喫茶店に、小百合を招き寄せました。
小百合が、なんとなくぼくに好意を寄せていることはわかっていました。
姉の結婚相手としての興味が三割、義兄としての信頼が三割、夫婦という関係への好奇心が三割、残りの一割が身近な異性への甘えだったと思います。
こうした比率を簡単にひっくり返す自信は、前からありました。
今までそうしなかったのは、ぼくなりに夫婦関係を損ないたくなかったことと、人としての矜持を保っていたいとの理性が働いていたからです。
だが、もうぼくは良き夫としての顔をかなぐり捨てる覚悟をしていました。
「うわー、小百合ちゃんきれいになったなあ。それに、すっかり大人っぽくなって・・・・」
ぼくは、あらためて女を見る目つきで小百合を見つめました。
あからさまな視線を受けて、小百合は頬を真っ赤に染めました。
「小百合ちゃん、もう成人になったんだよねえ」
追い討ちをかけました。
そして、親や姉の支配から解放されることの正当性を意識させました。
その日は、眼のなかに潤みを持ちはじめた小百合を、早めに家に返しました。
次の日の正午に、福島駅の改札口で待っていることを告げておいて・・・・。
「でも、嫌だったらやめていいんだよ。待ちぼうけは辛いけど、小百合ちゃんにも将来があることだし・・・・」
なんという卑劣な仕掛けだったでしょう。
小百合をもてあそぶ快感に、ぼくは酔い痴れていました。
何も気づいていない義父母や妻の存在を、小百合の背後に意識しながら・・・・。
ぼくの仕掛けたカスミ網に、一羽の小鳥がかかりました。
映画に遊園地に、そして食事に、会員制倶楽部でのラテン音楽やカクテルに・・・・。
酔いは朝方まで続き、小百合は白いキャンバスの上で絵となりました。
悪魔のような快楽を得た後は、当然のこととして修羅場が待っていました。
小百合は熱病にかかったようになり、「姉ちゃんの方から別れたいと言ったんでしょう。だったら別れてよ」
面と向かって姉を罵りました。
ぼくは嘘を言ったわけではありません。
耳にした言葉、妻の内面を反映した感情の動き、それらの真実を偽って伝えたつもりはありません。
しかし、時と場所を選ばずに蒔いた災いの種を、誰が正当と認めるでしょうか。
美登利は何かから逃れるように能登半島の先端まで行き、海に身を投じました。
小百合は事の重大さに怯え、ぼくの前からも家族の前からも姿を隠しました。
捜そうとする行為自体が罪深く思えて、ぼくは放っておきました。
いつの日にかひょっこりと、小百合が現れそうな気がしていたのです。
丑三つ時という言葉が、ぼくの脳裏をよぎりました。
この時間には、たいがい起きていたことはなく、何事も感じずに盛岡の朝を迎えていました。
(たまたま目覚めたから、嫌な寝言や歯軋りを聞かされたのだ)
妻の自殺や小百合の失踪に拉がれなかったとは言いきれないが、現在まで仕事を続けてこられたタフな性格は、たぶん貧しさに鍛えられていたからだろう。
女なんて、行く先々にいるから拘ることはないのだ。
今では、美登利を押し付けてきた義父母が悪いのだと思っている。
定住できない生物に向かって、籠に入れと説得するぐらい理不尽な行為だったのだ。
当時はそれなりにチクチクしたものを感じ苛立ったものだが、もう時間が皮膚感覚を麻痺させてくれた。
仕事に紛れて忘れていたことを、暇になって思い出したのだろうか。
おそらく、定年になって振り返る時間ができたせいだ。
ちょっと怖い話などと思わせぶりな言い回しをしてみたが、他の方はどう思ったろう。
怖いと言いながら本人ですら凌いできたのだから、関わりのない方には大した問題ではないのだろう。
そうそう、あの後ぼくもベッドのカーテンを閉じて、残っていた缶ビールを四口ほどで空け、無理やり眠りに就いたのです。
すぐに寝れば、明日のセールスが楽になる。
夜明けを迎える盛岡まで、三時間ほどは眠れるはずだ。
えーい、眠っちゃおうという気持ちになっていました。
そして眠りました。
ビールさえ飲めば、これまでも必ず眠れたという実績通りでした。
ところが、眠りのど真ん中で、またうめき声を聴いたのです。
ああ、ああー、あわわー。
クク、クク、あっつうー、来て!
その叫び声は、なんとぼくの真下から突き上げてきました。
( な、なんだ・・・・)
夢なのか、半覚醒の状態だったのか、ぼくは意表を突かれて飛び起きました。
慌ててカーテンを開け、手すりにつかまって開放されたままの下段ベッドを覗きこみました。
ちょうど車輪がレールの連結部に乗った反動で、わずかに横揺れしました。
「あっ」
身を乗り出した形のぼくは、ベッドに横たわる女性の人影を視てしまったのです。
長い髪の毛に埋もれながらも、横向きの顔が一部覗いていました。
「小百合!」
諦めたふりをしていても、ぼくの声は歓びに震えていました。
その時すでに、ぼくの落下は止められない状態になっていました。
ああーっ。
梯子に掴まろうとした手が、梯子の段に絡まれ、変な体勢でひねられたようです。
その間にもぼくは、ベッドにうつ伏せになっている女の腰から脚にかけてを見極めていました。
長い髪は明らかに小百合のものなのに、下半身から発せられる印象は美登利のものでした。
ぼくは、ただただ獣のような声を発していました。
本当の恐怖を覚えました。
ぼくは通路に叩きつけられ、気を失いました。
あとの記憶は、あまりはっきりしていません。
こうして生きているのですから、手当てを受けて命を取りとめたのでしょう。
先のような出来事があったのに、その後も支障なく仕事を続けられたのは不思議でした。
そして今、その時の出来事を三十年ぶりに思い出して、ちょっと怖かったなどと話しているのです。
えっ? お前が視たという女の人は、いったい何者だったのかって?
確かな肉体がそこにあったのか、ぼくの意識が創りだした幻影だったのか、今さら確かめる手段はありません。
ハハ、ハハハ、どちらでも同じじゃありませんか。
光線が正に働くか、負に働くかの違いだけでしょう。
ぼくが悪人かどうかなどという問題なら簡単に決めてもらっても構いませんが、ぼくが目にした現象はどちらとも言い切れないのです。
ただ、ぼくは、ただ、怖いと、・・・・そう言っているのです。
(おわり)
スリラーとか冒険物とか、映画などでも、なんとなく約束事みたいなものがあって、みんなそれを受け容れたうえで楽しんでいた気がします。
実際の世の中と一緒で、物語の世界でも暗黙の諒解といった部分が少なくなっているのでしょうか。
ともあれ、愉しんでいただけたこと嬉しく思いました。ありがとうございました。
たまにはこういう懐かしいような世界に遊ぶのも愉しいですね。
オープニングの3行がいかにも「さあこれから怖い世界が始まるぞー」との期待を持たせてくれて、このお決まりがなんともいいねー。
私たちの子どもの頃にはこういう独特の雰囲気を持つスリラーがたくさんありましたが、近年はほとんど見かけなくなりました。
主人公と一緒に寝台急行の車内で一夜を過ごしている気分になれます。これから何が起こるのかな、と想像しながらの架空の旅をさせていただきました。
現実の生活に疲れたときにはちょっとした心のクスリです。
またいつかこういうのを書いて!