私の仕事は、会社まわりの営業マンである。
売り込みは思い通りに行かず、それでも部長相手に粘っていたが、一息入れるために社屋内の売店のようなところに立ち寄った。
そこで目に付いた揚げ物を買って食べていると、急にお腹が痛くなった。
おかしいなと思いながらトイレを借りて用を足そうとするのだが、便器の蓋を上げると黒い汚れが点々と飛び散っていてすぐには腰を下ろせない。
しかしだんだん便意が迫ってきて、汚いと思いながら尻をつけて延々10分ほど頑張った。
やがて下腹部の収縮が収まったので、ドアを開けて出てみると、ピンクのジャケットを着た会社の女性事務員たちが洗面所のあたりにたむろしておしゃべりをしている。
私の姿を見つけると、さっきまでお茶の接待などをしてくれた事務員が近づいてきて、「あのおばさんが作った惣菜は、会社の人は誰ひとり食べないんですよ」という。
「どうしてですか」
「前にも食中毒を起こしたことがあるんですよ」
わかっているなら、売店で売らせなければいいだろう、と会社のいい加減さに憤然としたが、教えてくれた女性事務員には笑顔で「ありがとう」といった。
そうこうしているうちに昼の休憩時間になったらしく、事務員たちは連れ立って会社の構内から外の道路のほうへ出ようとしていた。
ちょうどその時、向かいの門から一台の軽トラックが飛び出してきて、右折しながら事務員の一人の足にぶつかった。
「おい、邪魔だ。どかないとひき殺すぞ」
威嚇の言葉が終わる前に、男は事務員に当てていたのだ。
「おい、何をする! お前わざと当てたな?」
私は駆け寄って注意した。
とたんにクルマを停めて降りてきたのは、ヤクザっぽい角刈りの男で、半袖シャツから出た二の腕は赤銅色に輝きいかにも精悍に見えた。
「なに? お前インネンをつけるのか」
威圧されて、私はあわてて事務所に引返した。
「110番、110番」
中に残っていたベテラン女性事務員に要請した。
筋骨隆々の男が押し入ってきたら止めようがない。
私は入口の引き戸を押さえたまま、パトカーが来るのを待った。
角刈りの男は会社の構内をうろうろしていたが、パトカーがサイレンを鳴らして到着すると右手を上げて敬礼してみせた。
「ご苦労さんです」
「何があったんですか」
助手席から降りてきた年配の巡査が訊いた。
「いやあ、胡散臭いよそ者に言いがかりをつけられたんで、事務所の中に閉じ込めておいたんですよ」
「どれ、どの男ですか」
巡査が私のほうを振り返った。
けわしい顔で私のほうを見ているので、なんだろうと訝る気持ちが表情に出た。
「おい、出てこい!」
事務所のガラス戸に近づいてきて、手のひらでこっちへ来いと合図している。
気が付くと私はまだ懸命に引き戸を押さえていた。
(これじゃまるで、こっちが犯人で怯えているみたいじゃないか)
私は憮然として引き戸を開け、睨んでいる年配の巡査に向かって一歩踏み出した。
「あの男を早く捕まえてくださいよ」
構内の真ん中でニヤニヤしている角刈りの男を指さした。
「どんな容疑で捕まえろというんだ」
巡査は疑わしそうに私を見た。
「あの男は、こちらの会社の女性事務員を轢き殺そうとしたんですよ」
ここぞとばかりに訴えた。
ところが巡査は道路のほうを見やって、「轢かれた女性はどこにいるのかね?」
私も見渡したが、女性たちは面倒を嫌ってさっさと逃げ出してしまったらしい。
途方にくれて私は恨めしそうに巡査の顔を見た。「・・・・昼休みが終わったら帰ってきますから、女性たちに事情を聴いてくださいよ」
「きみのいう犯罪事実なんて、実はないんじゃないか」
あくまでも私の行為を疑っている様子だ。「・・・・それに、事務所に逃げ込んだのはどのような理由からだ?」
「それは・・・・、あの男が乱暴な言葉で私に迫ってきたからですよ」
「わからんなあ。タケダさんはここらの大地主で、この会社の土地も彼が貸しているはずだ」
(え? それと事故のあいだにどんな関係があるんだ・・・・)
私は呆然として言葉を失った。
そして、あの男がタケダという名前で、このあたりの大地主であるという事実を頭の中で反芻していた。
「きみはいろんな会社を回って、なんだかんだと因縁をつけてカネを取ろうとしているんじゃあるまいな」
旗色は悪かった。
この町では、正義が通用しないような絶望的な気分を味わっていた。
「ぼくは正しいことを申し上げたつもりですが、被害者が名乗り出ないのでは仕方がありません。どうやらぼくの独りよがりだったようです・・・・」
「そうか、まあ特段の被害申告もないようだから、きみを放免しよう。おれたちもあやふやな事案にいつまでも付き合っていられないからな」
そして、「さあ、きみはこの町からさっさと出て行ったほうがいいよ」と付け足した。
私はふらふらと構内から足を踏み出した。
もう角刈りの男の姿はなかった。もちろん、事務員の足を引っ掛けた軽トラックも。
なんだか白昼夢を見ているような頼りなさだった。
目の前にあった事実が、あっさりと消えていく。
それも自然消滅という感覚ではなく、消滅の裏に微かな悪意を感じているのだ。
ふと、映画で観たアメリカ西部の町の偏見に満ちた人間関係を想起した。
あそこでは、よそ者を徹底的に排除する論理がはびこっている。
人間の心の中には、そうしたものが巣食っている。
この町にも、確かにそういうものが存在している。逆らってもとても太刀打ちできないような因業なものが・・・・。
私は道路の端に立って、この町をつらぬく狭い道を眺めた。
古い街並みが庇を突き合わせるように続いている。
昔からの商店が、何代にもわたって生業を維持してきたのだろう。
日常生活に必要な物品は互いの店で買い求め、それぞれの商売がほそぼそとでも続けていける仲間意識が体の芯まで染み込んでいるのだ。
スーパーマーケットやコンビニの出店で、街の商店街が軒並み衰退している現状を見れば、大規模店舗の侵食阻止にスクラムを組む商店主たちの心情も理解できる。
しかし、その背後に隠れた封建的な固陋な意識は疎ましかった。
右手の崖の上には、大都市から分岐して林間に至る鉄道が、30分に一本ぐらいの間隔で走っている。
それを知っていながら、街の人たちはまともに目を上げて見ようとしていない。
私は思わずため息をついた。
古くさい一本の道と、それをはさんで顔を突き合わせる街並みは、役場も警察署も自分たちの都合のいいように作り上げて生き抜いてきたのだろう。
私はぶるぶるっと体を震わせた。
曇り空を危ぶんでいたが、とうとう時雨がやってきたらしい。
かすかに顔を濡らす雨粒を振り払うように、手に持っていたコートを広げてマントのようにひと振りし両肩にかけた。
(長居は無用だ・・・・)
年配の巡査の言葉が今では身に滲みた。
もともとセールスに行き詰まって立ち寄った見知らぬ町だった。
なんの愛着も未練もない。
私は少し戻ったところにある駅への階段を、力なく登り始めた。
階段は急傾斜で、息切れがした。
やっと登りきると平坦な通路が伸びていて、私はゆっくりと左右を見回しながら線路を渡った。
数十段を降りたところに広々としたプラットホームがあった。
こちら側は賑やかで、駅舎内には売店も立ち食いそば店もある。
私はにわかに空腹を覚えたので、駅員に切符を示して改札口を通り抜けた。
まず夕刊を買い、となりの立ち食いそば店に入ってキツネそばを注文した。
妙に腹が減るので、どうしてなのだろうと頭をめぐらすと、変な会社のトイレで腸がねじれるほど下痢をしたことを思い出した。
(やだ、やだ)
嫌な記憶を振り払って、甘めの汁をすすり、そばと一緒に大きな油揚げにかぶりついた。
うまかった。
熱いそばと油揚げのかけらが、汁とともに食道を通り過ぎていった。
何かの菌に汚染された胃袋が、まるごと熱いそばで殺菌され、待ちわびる腸へ向かって送られていくのが実感できた。
「ふう」
あまりに満足そうな表情を見せたので、食堂のおばちゃんが思わず私の顔をチラ見した。
(この人、何日も食べていないのかしら?)
そんなことを考えているのだろうなと想像しながら、私は気にもせずに汁を全部飲み干した。
「おばちゃん、ごちそうさん。人生すべからくテーピーオーだね」
私の言葉にびっくりしながら、それでも愛想よく「ありがとうございました」と声をかけてくれた。
待合室から一瞬外を見ると、細かい雨が道路を濡らしていた。
こちらの町でも、時雨はひとしく通り抜けていくのか。
ちょうど上りの電車がやってきたので、急いで切符を見せて飛び乗った。
小一時間電車にゆられて、私は営業所のある繁華街に囲まれた駅にたどり着いた。
しかし、会社には立ち寄らなかった。
どこかの焼き鳥屋に立ち寄り、カウンターに座ってしこたま日本酒を飲んだ。
そこから自宅までどのように帰ったのか覚えていない。
ああ~。
私は伸びをしながら朝を感知した。
はじめ何処にいるのかわからなかったが、カーテンの色と材質で自分の部屋だと認識した。
(きょうは何曜日かな。出勤時間に遅れているのかな)
それは毎朝襲ってくる強迫観念のようだった。
(ぼくは会社へ行かなければならないのかな?)
ふと枕元を見ると、懐かしい形の薬袋が転がっている。
白い小型の袋に青っぽいインクで診療所の名前が印刷されていて、私は確かにその袋から抗生物質と胃腸保護のための錠剤を取り出して服用していた。
(熱もあったよなあ)
だとすると、私が降り立ったあの町での出来事はなんだったのだろう。
角刈りの男とのトラブルや、パトカーで乗り付けた警官とのやり取りはなんだったのか。
思い出そうとするが、すでにはっきりしないところがある。
記憶が一夜にして薄れたのか、その記憶にとどまっていた出来事にしても、私は渦中にあった時点から変だと思う気持ちもあった。
一つ一つ指摘することはできないが、どこか辻褄が合わないと感じていたことは確かだ。
ただ、下痢をして苦しんだ感覚は残っているし、立ち食いそば店で食ったキツネそばの美味さも脳髄に染み込んでいる。
(だとしたら、ぼくが出会った時雨は本当のことだったのだろうか)
なぜか落ち着かない気分になって正面の本棚を見ると、カラスの引き戸で仕切られた初版本の一角に種田山頭火の短冊が立てかけてあった。
『うしろすがたのしぐれてゆくか』
私は短冊にじっと視線を貼り付けたまま、再び眠りに落ちていった。
(おわり)
何かの被害者であったはずの自分がいつのまにか加害者として追われている。
目覚めると嫌あーな汗をかいていたりして・・・あれは何だったんだろう。思うに任せない人生の不安の反映でもあったのか。
この小説に触れて久し振りにあの頃の不思議な感覚を思い出しました。
年を重ねるに従い鈍感になったせいか、忘れていた感覚でした。
ぼくはこの年になっても、下意識に不安を多く抱えているのかもしれません。
夢診断には興味がありますね。
ある程度パターンがあるのでしょうが、小説としてはちょっと意外性のあるものを書きたいものです。
ありがとうございました。