(やもめのジョナサン)
アダルト・ビデオの撮影に、木造アパートの一室を提供したことがきっかけで、衰えかけていた好奇心が埋火の灰を取り除いたように息を吹き返した。
ばあさんが死んで間もなくの頃は、時たま立寄る居酒屋の女将がちょっかいを掛けてきたが、今ではこちらから敬遠して近くを通ることもしなくなっていた。
色仕掛けで誘いを掛ける女の魂胆が透けて見えて、すっかり興ざめしてしまったのだ。
土地持ちの習性で守りの生きかたが備わっていたし、飲んだあとふらふら帰る道筋も危険だったので、いつからか自宅でテレビを相手の独酌に切り替えた。
古手の役者が語る焼酎礼賛のひびきが頭に残っていて、お湯割り焼酎が老人の食卓に欠かせないものとなった。
健康志向で梅干を沈ませ、時には黒糖焼酎に切り替えてささやかな変化を楽しんでいた。
日日是好日。可もなく不可もない生活に刺激をもたらしたのが、突然訪ねてきた映画のプロデューサーだった。
「昭和の雰囲気を出せる六畳間を探しているのですが、お宅のアパートが最適だと業者さんから聞きまして・・・・」
にこやかに制作意図を説明する男に、心意気を感じて部屋を貸したのが最初だった。
月を隔てて二度使用させたが、窓を覆うブルーシートやチンピラまがいのスタッフに疑いが生じた。
彼らの言動から、純愛映画を隠れ蓑に実はアダルト・ビデオの撮影をしているのではないかと気がついた。
だが、家主の老人は大目に見ることにした。
解体間近のぼろアパートが最後の稼ぎをしてくれる幸運を、そう易々と手放すのは惜しかったのだ。
それに加えて、出演する女優の姿を望見できるのも魅力だった。
男たちに囲まれてワゴン車から降りてくる女優を、日活ロマンポルノのスターと見比べて、あれこれ品定めすることができた。
白川和子や片桐夕子の妖艶さには程遠かったが、秘密っぽい撮影現場に連れ込まれる若い女の姿は、忘れていた老人の春情に火をつけたのだった。
二度目の撮影を前にして、老人は隣室の押入れに覗き穴を穿った。
持ち家ならではの特権を悪用して、撮影の一部始終を覗き見しようとしたのだ。
しかし、妄想の実行は寸前で取りやめられた。
習い性ともいえる慎重な性格から、臆病風に吹かれたのだ。
(万が一見つかりでもしたら、大恥を掻く・・・・)
露見したときの痛手を想うと、いたずら心もおのずから萎えるのだった。
いったんは断念した覗きだったが、日が経つに連れて自分の勇気のなさに腹が立ってきた。
前もって隣室の押入れに穴を開けておきながら、実行されないまま放置されている現状に言いようのない徒労感を感じたのだ。
手回しドリルを使って壁に穴を穿っているとき、体のどこかに花芽の兆しが蘇るのを意識していた。
にもかかわらず、春の芽吹きを蝕んでしまう弱気の虫を許せなく思えてきた。
(こう見えても、前の大戦では海軍に志願しようとした血気壮んな少年だった・・・・)
できることなら海軍航空隊に入って、国のために命を捧げたいと願ったのだ。
幸か不幸か、年齢が足りず受け入れられなかったが、成就されない夢の残骸を引きずっていつまでも未練を口にしていた。
(世が世なら、わしは花の予科練で出撃を待つ身だった・・・・)
そうあれかしと思う願望が、いつの間にか現実に紛れ込んでいる。
死をも怖れなかった少年が、親の遺産を受け継いだときから守りの姿勢に転じたことに、彼自身も気づいていなかった。
(思い込んだら後へは退くな)
事の是非を問わず、やりかけた仕事を全うしないと収まらない気がしてきた。
(今度の事だって、例外じゃない・・・・)
家主の老人は、できない理由を一つひとつ潰していった。
(部屋の鍵を開けるとき、音がしないか)
あらかじめカギを外しておけばよい。
(押入れに入るとき、ごそごそ音がしないか)
押入れの中に毛布を敷いておけば問題ない。
(くしゃみが出そうになったらどうするか)
丁寧に掃除して埃を抑え、当日は用心のためにマスクを掛ける。
(ほかに、何かチェック漏れはないだろうか)
老人は、いずれ三度目の撮影が来る日に備えて、慎重に準備を整えていった。
なんとなく年を越し、お年玉をもらうためだけに来た孫たちとトランプの七並べをした。
戸棚に隠してあった到来物のワインを孫に見つけられ、息子と開ける羽目になった。
「父さんは焼酎党だろう。宝の持ち腐れにならないよう、俺が飲んでやるよ」
「何を言うか、わしにだってワインの味ぐらいわかるさ・・・・」
見つけ出されたことが妙に嬉しいのは、やはり血を分けた子供や孫が相手だからだろう。
目を細めて、息子の嫁が作ったという土産のおせち料理に箸を伸ばした。
平穏無事に立春も過ぎ、再び好々爺に戻りかけたころ、あの温厚そうなプロデューサーが撮影の話を持ってきた。
太宰治の『人間失格』をベースに、身勝手な男と酷い仕打ちに耐える女を描きたいのだと説明した。
老人は、近頃まともに映画館に足を運んだことはないものの、同じ素材を基にした邦画がけっこう評判になっているのを知っていた。
「ほう、あっちでもこっちでも無頼な男が大もてですなあ」
「え? ああ、まあ生誕100年というのと、先の見えない時代のイメージが重なるんでしょう・・・・」
映画監督でもある男が、家主の顔を見直した。
最新の情報には疎いだろうと踏んでいた老人が、案外アンテナを高く張っていることに驚かされたのだ。
「じゃあ、準備も進んだようなので・・・・」
軽く頭を下げて、アパートの方へ戻っていった。
老人も玄関の扉を閉めて、角部屋にあたる六畳間の窓から様子を窺った。
塀際の空き地でうろちょろしていたスタッフも引き上げ、撮影現場に入ったようだった。
そろそろカメラが回りだすころだろう。
老人は進行を熟知する関係者の気分で、箒と塵取りを手にアパートへ向かった。
外階段の下に清掃用具を置いたのは、アリバイ作りのためだった。
たとえ部屋の中にいるのを発見されても、用事があってのことと言い訳できる小細工だった。
足音のしないゴム底の運動靴を履いていた。
なんとかいうメーカーの有名ブランドらしかった。
サイズが小さく売れ残っていたため、値下げされているのを買った。
近頃の若者は、運動音痴の割には足だけ大きいのかと、辛らつな思いが頭をよぎったのを覚えている。
階段を猫のように登り、鍵の掛けてない部屋に滑り込んだ。
作業衣のポケットから懐中電灯を取り出し、開けっ放しの押入れに這い上がった。
老人は、正座したまま覗き穴に右目をあてた。
隣の部屋には煌々とライトが点いているらしく、狭い視野にも関わらず女優のしどけない姿と二人の男の背中が見えた。
女がこげ茶色の机に寝そべっているのは、小説家の書斎を意識してのことだろうか。
窓際の壁に首だけ凭せかけ、わずかに膝を立てた女優が早くも演技に入っていた。
あっ、あっと喘ぎ声を漏らしながら、女が着物の裾を捲くられている。
一人の手が股間に忍び込み、しだいに花園をあらわにしていく。
指がうごめき、照りつけるライトに狼藉の跡を見せつける。
「もっと膝を開いて!」
プロデューサーの叱咤が飛ぶ。
壁に凭れていた頭がずり落ち、尻の位置が机の縁まで引きずり出される。
「サブ、鼈甲入れて・・・・」
両側に分かれて女優をいたぶっていた男の一人が、どこからか時代がかった張り形を取り出し、女の伸び切った部分にずぶりと差し込んだ。
サブというのが名前なのか、補助者をさす意味なのか、目を凝らしながらも頭の隅で考えていた。
限られた視野が、時おり男たちの背中で遮られる。
あまりのリアルさに度肝を抜かれる一方、監督の声やカメラの動きに絵空事とも思える非日常を感じていた。
押入れの暗い空間に正座する老人は、いつしか自分だけの世界を形づくっていた。
覗き穴の先にいるのは、昭和色の秘め事に翻弄される一人の女だけだった。
生々しい亀裂を押し広げ、匂うような喜悦を表現する尊いまでの母性だった。
たった一人わしのために慰めを送ってくれている。
衒いも冷やかしもなく、ひたすら男を悦ばせようとする慈愛に満ちた行為だった。
老人は涙を浮かべながら、深い息を吐いた。
覗き穴の先の神々しい母性に向けて、その場でひれ伏したいような感動に捉えられていた。
ゴツンと老人の額が壁に当たった。
瞬間、女の股間に取り付いていた男の動きが止まり、後ろを振り返った。
老人からは見えない位置にいるスタッフも、物音のした方を窺う気配があって、撮影が中断された。
喘ぎの真っ最中にあった小説家の妻も、表情を変えてまっすぐに視線を伸ばした。
老人は、覗き穴を通して自分の視線を押し返されたような気がした。
犯したミスが、どのような波紋を描くか予測できないでいた。
四角い暗闇の中で、自分の在り処すら曖昧だったのだ。
目前で展開した女の蠢きだけが真実で、壁に頭をぶつけた行為も夢見心地だった。
一方、監督の声、カメラマンの動きは、粗雑に組み立てられたシナリオのように疎ましかった。
(逃げ出そうか)
非日常の世界から抜け出して、女の前にひれ伏したい衝動に駆られた。
「オーケー、そのまま続けて・・・・」
プロデューサーの姿は見えず、指示する声だけが聞こえた。
どうやら覗き穴の存在には気づかず、ネズミか風のいたずらと判断したのかもしれない。
ほっとした思いで、老人は再び覗き穴に顔を寄せた。
「大家さん、そんな窮屈なところに居ないで、こっちへいらっしゃいよ」
背後から、笑いを含んだ声で呼びかけられた。
いつの間に入ってきたのか、温和な表情のプロデューサーが押入れの前に立っていた。
「大家さんの気持ちは、前回部屋をお借りしたときから薄々気がついていたんですよ」
老人は狼狽する暇もなく、不思議なプログラムに引き込まれるのを感じた。
「さあ、向こうの部屋へ行きましょう」
痺れの残る足を引きずりながら、先を行くプロデューサーの後を追った。
隣室の扉を開けると、照明の光と熱が流れ出してきた。
すべてを仕切る男は、老人が付いてきたのを確認して入口に招き入れた。
「はい、カット。・・・・みんな、今日からベテランの役者さんに参加してもらうので、よろしく頼みますよ」
好奇の視線が予想されたが、急な場面転換に誰もがポカンとしていた。
スタッフも役者も、監督の指示を前に思考を停止していた。
(わしは、鳥のように空を飛んでいるのだろうか・・・・)
家主の老人もまた、調教されたカモメのように従順だった。
自由をめざして飛び立ったジョナサンが、結局は神の筋書きに乗せられていた。
白昼まっただ中に起きた不思議な出来事は、日常と非日常の境界をあっさり越えて進行しつつあった。
「老作家の登場だ。予備の衣装を出してやって・・・・」
スタッフの若者に、染め紋の浴衣を引っかけられた。
「先生、サルマタを脱いで! ここじゃ、世間の決まりごとは一切要りませんよ」
若者の手でずり下げられた下腹部に、スポットライトが当てられた。
「おい、勃ってるぜ、こりゃ凄いや」
誰からともなく歓声があがった。
突然侵入してきた老作家を軸に、いまシナリオが書き換えられようとしていた。
(おわり)
いいですねエー。いよいよですね。
肝心なところもお元気なようだし、さあーこれからどうなるのか。
興味津々わくわくドキドキ・・・ここまで引っ張ってきて「おわり」はないでしょ。
ここはもう「つづく」でなくちゃ。
期待していますよ。
この大家さん、思いもかけない撮影の仲間になってしまったことで、どのように新しい自分自身を発見していくのか、じつに興味深いですねー。
(知恵熱おやじ)様、ここらが限界とおもっていたのですが・・・・。
「つづく」と言われちゃうと、頭の上がらないオッチャンですから。
そろそろタイトルにも窮してきそうだなあ。
ともあれコメントに感謝!
なにせ「ポルノ」という言葉が出てきただけで男子たるもの、「どれどれ」と膝を乗り出します。そこのところを作者は承知のうえで、巧みに誘導してくれました。
そして、ご老人の所作がまた巧みに描かれています。「覗き穴を穿った」なんて涙ぐましいったらありはしません。
自分でも、そうするだろうなあ、と思わせられたりして。
そして、終わり近くなって初めてタイトルの意味が明らかに。
「やもめのジョナサン」とは、よくぞ編み出したものですね。
そのわりには「大家の老人」の名前も(映画関係者の名も)登場させずに終わりました。
いつもの小説なら、その主人公の命名が驚くほど巧みだったというのに。
今回はプライバシーを保護するかのように。
さてさて、知恵熱おやじさんのコメントにもあるように、なんたって続編が楽しみです。
(くりたえいじ)様、名前のことはまったく意識していませんでした。
なにせ『やもめの白昼夢』から始まり、勢いでこうなってしまったので・・・・。
架空の話とはいえ、まともに向き合うとけっこう大変そう。
コメントありがとうございました。