風邪をひいて寝込んでいた正輝は、微かに拍子木の音を聞いたような気がして目を覚ました。
彼は昨日まで警備会社に勤める傍ら、夜勤明けの数時間を牛丼店のアルバイト店員として働いていた。
厨房に入って出勤前の客のために盛り付けし、仕事が終われば自らも奥の控室で遅い朝食を摂った。
彼にとって時給のほかに朝飯を確保できることは願ってもないことであり、長らくそうした生活を維持してきた。
それが風邪をひいたことで狂ってしまった。
寒さの中で二重に仕事を続けてきた無理がたたったのかもしれない。
そうまでして稼ごうとするのには、彼が置かれた境遇が関係していた。
中学三年生の時、両親が営む小料理屋が火災に遭い、二階に寝ていた父と母が二人とも焼死してしまったのだ。
正輝は高校受験を控え三階の静かな勉強部屋を与えられていたため、駆けつけたハシゴ車によって危機一髪のところを救出された。
しかし店舗は借りものだし、火災保険は家主が掛けていたものの店子には何の支払いもなかった。
肝心の生命保険も掛けていた様子はなく、飲食店組合や市からの見舞金以外に保障といったものはなかった。
やむなく近くの叔父の家に身を寄せたのだが、救済機関の援助を得て入学した工業高校を出たところで今の警備会社に就職し、焼けた父母の店とは通りを挟んだ反対側にあるアパートを借りたのだった。
夜勤明けの今朝、体に熱っぽさを感じて牛丼店のアルバイトを取りやめた。
気分が悪いこともあったが、インフルエンザということになれば同僚に迷惑がかかることにも配慮した。
開店したばかりの薬局に寄り、市販の風邪薬を買って服用した。
蒲団の下には電気毛布が敷かれていて、いつもより温度をあげて温まったところへもぐり込んだ。
寒気を感じたのは最初だけで、頭まで毛布をかぶって身を固くしていると次第に体がほぐれてきた。
いつの間にか安らかな気分になって、眠りに引き込まれていった。
汗をかいたせいか、少し熱が下がったようだ。
枕元の目覚まし時計を見ると、午後二時を回っていた。
腹減ったなあ。
薬を飲むために無理やり口にしたコンビニのおにぎりと牛乳は、もうとっくに消化されているようだった。
外出するのは億劫だった。
かといって、買い置きの食料はインスタントラーメンと自炊のための米ぐらいだ。
餅があったかな。
正月を前に、切り餅の袋と焼き海苔を買っておいたのを思い出した。
そういえば魚肉ソーセージも数本は残っているはずだ。
病状が少し好転するまで、手持ちの食料で持ちこたえられないかと思案した。
のろのろと起き上がって、トースターで餅を焼いた。
醤油を用意し、海苔餅にして三個食べた。
また薬を飲んで、蒲団にもぐり込んだ。
その時、夢の中で拍子木の音を聴いた気がした。
師走も近い昼下がりに拍子木を叩く者などいるわけがないから、きっと、現実の事ではないのだろうと判断した。
再び安静に眠ろうと努力したが急に不審の念が頭をもたげ、ぶり返した気分の悪さと共に体の中に広がっていった。
いつのことか定かではないが似たような気がかりに囚われたことがある。
いつ頃のことだったろう?
思い出そうとしたが、明確な手がかりも、喰らいつくほどの根気もなかった。
薬が効いてきたのか、頭の中に靄がかかってきた。
まあ、いいや。
今度目覚めたら、警備会社の上司に電話しておかなくちゃならないなとぼんやり考えていた。
どれほど時間が経った頃だろう。
彼は夢の中で、目の前に浮かびあがろうとするものを掬い上げようとしていた。
それを捕えれば、気がかりの正体が明らかになりそうに思えた。
おぼろげながら、輪郭がはっきりするはずだと思った。
どうやら正輝は、夢の中でぼんやりと地上を眺めているようだった。
勉強に疲れたというより、炬燵の温もりにうとうとしかけて、それを阻止するために三階の窓から路上を見下ろしていたのだ。
両親が営む小料理屋「ちよの」は、表通りからは一本道を隔てた住宅地の一画にあった。
路地の両側には一定の間隔で街灯があり、上から見ると建物の一階部分が陰影をともなって照らし出されていた。
もう午前二時を回っていた。
ほとんど人通りはなく、たった一人肩をすぼめた男が建物の間を通り過ぎて行くのが目に入った。
もっと早い時間なら、この路地に入ってきた通行人の何人かは、両親の威勢のいい声に迎えられて「ちよの」に入ったかもしれない。
しかし、十二時には暖簾を下ろすから、いまごろは後片付けも終わって、両親とも眠りに就いている時刻だった。
忙しくなる前に母が届けてくれた夜食は、もうとっくに腹の中におさまっていた。
そろそろ寝ようかな。
食器を載せたお盆は、明朝正輝が持って降りる約束になっている。
寝静まった街は、連なる屋根の単調さといい、灯りの貧弱さといい、なぜか漠然とした不安を暗示しているように思われた。
何分間かそうして窓からの景色を眺めたのち、正輝は寒さを感じてまた炬燵にもぐり込んだ。
炬燵布団を首まで引き上げ、不自然な姿勢のまま眠りに落ちていた。
火の用~心。
カチカチ、火の用心。
一年近く聞いたことのなかった拍子木の音が、夜回りの声と共に浅い眠りを破った。
えっ、こんな時間に? 正輝は時刻を確かめ、寝る前の記憶をつなぎ合わせて、自分がいま居る地点を座標軸に描きこんでいた。
変な時刻ではあったが、町内会の冬の行事として期間限定のイベントが始まったのだろうと推測した。
それにしても、夜回りの人はどのあたりから出発するのだろうか。
遠くの方から聞こえていたという記憶はなく、彼の感覚ではいきなり足下から始まったような気がするのだ。
寝静まった住宅街だから遠慮したのだろうか。
それとも、ガスなどの火を使う飲み屋や飲食店を意識して、ことさら声を上げるのだろうか。
想像するに、夜回りの男は紺のハッピを纏い、腰に巻いた帯に提灯をたばさみ、硬い拍子木を打ち合わせて気分を高揚させているにちがいない。
当番になった気負いを胸に、自らの存在を知らしめるためにも声を張り上げようとするのだ。
ただし、深夜である。
夜回りの行動に目を向ける者など、あまり居ないだろう。
称賛を期待しても、観客はほとんどいないのだ。
かわいそうに・・・・。
出来ることなら、夜回りの男の姿を一目見たかった。
叶わなかった不満が、その時の正輝の胸に押し込められた。
夢の中で甦ったわだかまりはそれだったのか。
ああ、そうだ・・・・。
火事だあ~と叫ぶ声が響いたのは、夜回りが去ってから三十分も経たない頃だったように思う。
しかも正輝が気がついたときには、もう火の手は「ちよの」の二階にまで達していて、階下に降りるどころか三階の勉強部屋まで迫っていた。
正輝は急いで道路側の窓を開け、集まってきたヤジ馬に向かって声を嗄らして助けを求めた。
煙と熱気が彼の背後から吹きあがる。
階段が煙突の役目をするのか、背中がチリチリと焼かれるような気がする。
このままではだめだ!
とっさに、近くにあった炬燵のコードを引き抜き、一方を窓枠に括りつけ、他方を自らの体に巻いた。
窓外に身を乗り出し、窓枠にぶら下がった。
コードで身体を確保しているので、重みは少し軽減されたように思う。
煙と熱気はさらに激しさを増していたが、窓から吹きだすものの正輝の体にまつわることなく風に攫われて行った。
まもなくハシゴ車が到着し、正輝は消防士に抱えられて救助された。
地上に降り立つと、何人かが遠くで拍手するのが聴こえた。
救急車に収容されると、緊張が緩んで気を失った。
その時点では、父母の安否のことなど欠片も思い浮かばなかった。
当然逃げたはずと思っていた両親の死を告げられたのは、翌朝のことだった。
そんなことがあっていいのだろうか。
名指しのできない理不尽に対して、彼は憤りを覚えた。
当初、出火原因は「ちよの」の火の不始末と見られたが、店の横に置かれたゴミ箱からの不審火という疑いが出た。
どちらにしても、夜半になって風が強まったことが火の回りを早くした。
深夜で発見が遅れたことも、焼死者を出した一因とされた。
夜回りが周回したことは、消防も把握していた。
「火の用心を始めたばっかりなのになあ」
不審火では手の施しようがないと、運の悪さを嘆くばかりだった。
警察も放火かもしれないということで、不審者を見かけなかったか目撃者探しに聞き込みを強めた。
正輝に対しても、脱出前後の行動と合わせて、怪しい者を見かけなかったか繰り返し聞き取りをした。
(一人だけ深夜の路地を通り抜けて行った者がいる・・・・)
誰かが火事だあ~と叫ぶ声を聞いたのは、肩をすぼめた男が通ってから小一時間ほど過ぎていただろう。
夜回りが来たのは、その合間のことだった。
火の用~心、カチカチ。
眠っていたからはっきりしないが、火事を知らせる大声に起こされる三十分ほど前のことだと思う。
正輝はその夜の状況を組み立てなおした。
警察は出火時刻の特定と合わせて、通報者の火災発見時刻、それに通行人への聞き取りも進めているはずった。
当時彼は、拍子木の音がいきなり足下から起こったなどという印象を述べることはなかった。
眠っていて不確かな知覚だったし、よしんば「ちよの」の店舗前から聞こえ始めたとしても、そこが町内の出発点であれば問題になる事ではなかった。
(しかし・・・・)
夜回りの男が、暗闇の路地裏に蹲っていたとは考えられないだろうか。火をつけておいて、大ごとにならないよう周囲に知らせる。拍子木を叩いたとすれば、その目的に違いない。
そこまで疑うことに二の足を踏み、長い間記憶の奥へ閉じ込めていたが、放火とすれば夜回りの男の可能性が否定できないのだ。
たまたま風邪をひき、昼間の二時過ぎに目覚めたことで、長年胸に刺さっていた棘の不快さを思い出したのだ。
漠然とした疑念に、より真実味を与えたのは夢の中で甦ったあの拍子木の音だ。
放火犯を捕まえたら真面目な消防隊員だったというテレビニュースを見たときの記憶がオーバーラップした。
マッチ・ポンプという言葉が定着しているように、そうした事例は少なくないらしい。
理由はさまざまだが、いち早く駆けつけて功名を上げようとする異常心理のなせる業だという。
罹災当時の正輝は、そこまで考える知識を持ち合わせていなかった。
だが、今は違う。
警察官や消防署員の前で口にすることのなかった推理に、明々と灯が点ったのだ。
あの拍子木の音には、つじつまの合わない響きが潜んでいる。
キ―ンと夜の寂間を突き抜けるはずが、打ち合わせる手の動きに微かな躊躇が感じられる。
正輝は風邪で熱っぽく垂れさがってきた瞼を押し上げ、火事の夜の路地を凝視した。
もはや時間の経過はゼロになっていた。
受験生だった自分と、仕事を休んで臥せっている自分が同期していた。
夢の中に忍び込んで来た何者かのたくらみなのか。
真昼に聞いた拍子木の幻聴が、思わぬ記憶を引きずりだす。
拍子木を叩くのは誰だ!
あの時も今も正体を明かすことなく通り過ぎようとした者を、背後から羽交い絞めにする。
病気が治ったら調べてみよう。
火事という楔(くさび)があるのだから、当時の町内会のメンバーに訊いてみれば、夜回りの男の正体は明らかになるはずだ。
正輝が感じた午前二時という時刻の不自然さも、おのずから判明するに違いない。
彼は逸る気持ちをを抱え込み、胸の奥がじゃらつくのを意識していた。
(おわり
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