マツ子は、自分の足の親指が人一倍大きいのではないかと悩んでいた。
意識するようになったのは、小学三年生になった春のあの日からだった。
「あら、あなたの親指ずいぶん大きいのね」
新学年になって間もなく健康診断があり、身長計測器の台に乗った瞬間、担任の女性教師がじっとマツ子の足元を覗きこんで言ったのである。
「・・・・」
普通、背伸びをしていないか踵の位置を確かめたりするものだが、先生はいきなり足の指に注意を向けたのだ。
面と向かって足指が大きいと言われたのは初めてで、ショックを受けたのは確かだ。
しかし、ニュアンスは違うが、お祖父ちゃんから「マツ子の指がちょうどツボにはまって気持ちええわあ」と喜ばれたことを思い出していた。
うつ伏せになった背中を、ときどき押してくれと命じられるのだ。
肩や首筋を、親指でじわーっと押すこともある。
祖父ちゃんが声を出して喜ぶので、自分の足指は特別なのかもしれないと意識することはあった。
先生に言われた瞬間黙り込んだのは、自分が怒っているのか、それほどでもないのかはっきりしなかったからだ。
「あら、悪い意味で言ったんじゃないのよ。あなたみたいに親指が大きいと、将来身長が伸びるって聞いているから・・・・」
先生は、マツ子の反応に気を使って言い訳をした。
「そう・・・・ですか」
「スポーツ選手なんか向いているんじゃないかしら」
「そう、なんですか」
「バレーボールとか、きらい?」
「いえ」
あれこれ質問されているうちに、足指へのこだわりはいっそう募っていた。
(なんだか、誤魔化そうとしている・・・・)
マツ子は、いつの間にか隣の体重計に誘導され、気がついたときには次の視力検査室に送り出されていた。
二年後に祖父ちゃんが死んで、按摩を頼む人がいなくなった。
父親は冬の間出稼ぎに出ていて、娘にマッサージをしてもらうことなど考えもしなかったろう。
祖父がいなくなって以降、マツ子の足の親指が役に立つことといえば、せいぜい正月の足指相撲のときぐらいだった。
炬燵でのトランプに飽きたときなど、櫓の上に足を出して指相撲を戦わせるのだ。
相手の女の子は、まともに組んでも敵わないから、マツ子の中指を挟もうとするのだ。
「いやーっ、ズルーイ」
マツ子が大声を上げ、二人とも笑いっぱなしに笑いこける。
十回勝負で結局はマツ子がミカンを多くせしめ、それを分け与えて宿題をやらせたりする。
ませた女の子の悪知恵で、相手に好きな男の子の名前を白状させたりして、母親がパートから戻る夕刻前まで大騒ぎの毎日だった。
季節が巡ったある日、思いもしない外界との関係が生じることとなった。
「マツ子、おまえ子供相撲に出てみないか」
隣町のスーパーマーケットから帰ってきた母親が、おやつのポテトチップスを渡しながら声をかけた。
「ええっ?」
「優勝すると、運動靴をくれるんだと・・・・」
町の秋祭りに行われる相撲大会への出場者を募集していて、いまならまだ間に合うのだという。
「だって、わたしは女だよ」
「小学生の部は、男でも女でも構わないらしいよ」
その町の住民か勤務者の子弟であれば、参加資格があるらしい。
優勝商品は有名ブランドのスポーツシューズかもしれないと言われて、マツ子もついその気になった。
九月の半ばに、八幡神社の境内で恒例の子供相撲が催された。
参加者十六人のトーナメント方式で、三回勝てば決勝に進めるのだ。
最初マツ子は、試合のルールに戸惑った。
ホットパンツの上からマワシをつけられ、同級生に見られたら恥ずかしいなと躊躇した。
(でも、隣町だから誰も見に来ないか・・・・)
次に、裸足になるように言われて、今度こそ憤慨の色を顔に出した。
「運動靴のままではできないんですか」
それなら、わたし辞めさせていただきます・・・・と口に出しそうになった。
足の裏を土で汚すことは、死んだ祖父ちゃんを冒涜することではないかと思ったのだ。
「土俵は神聖なものです。裸足になれないなら、参加は認められませんよ」
靴を履いたまま土足で土俵を踏みつければ、それこそ神様の罰が当たるのだと思い知らされた。
マツ子は、しぶしぶ靴を脱ぐことを承諾した。
当然だが靴下も取ると、生白い大きな足があらわれた。
とりわけ目立つのは親指で、根元からイチジクのようにぽってりと膨らんで他の指を圧しているのだ。
町内会の役員は、マツ子の顔を見てかすかに頬を緩めた。
(道理で裸足になりたくないわけだ)
マツ子も、役員の表情から同じ思いを読み取った。
(だから、裸足はイヤだっていうのに・・・・)
不承不承ではあるが、マツ子は一回戦に出場した。
いざ試合が始まると、男の子はなんとなくぎごちない動きをした。
マツ子に身体が密着しないようにとの意識が働くらしく、手だけで押し出そうとして自ら土俵外へ飛び出していった。
二回戦の相手は、彼女の周りをまわって足がもつれたところを、マツ子に組みつかれて後ろにひっくり返った。
(なんで?)
マツ子は、力を出せない男の子たちの心理を見透かした気がした。
ところが、三回戦はかなり追いつめられた。
それでも寄られた瞬間、親指が土の中にめり込むような感覚があり、そこを基点に踏ん張ると相手の重みが横の方へ逸れていった。
「ワーッ、うっちゃりだあ」
観客から歓声が上がった。
(えっ、どうなってんの?)
マツ子には、信じられない力が天から降りてきたとしか思えなかった。
あれほど嫌がった裸足が、いまや幸運の遣いとなって勝利をもたらしたようだ。
決勝戦の男の子は、立ち合いから自信に満ちたマツ子の気合いに押されて、引き技で崩れていった。
ブランド物かどうかはわからないが、かなり柔軟なラバー底の運動靴を手渡された。
履いてみると、サイズは合っているのだが爪先が窮屈なのだ。
(ヤダ―、親指が入らないなんて、わたし言えない)
下を向いて、自分の足指を恨んだ。
母親が出てきてひと回り大きめのサイズを告げ、事なきを得た。
町内会役員の一人が靴店の主人で、何種類かのサイズを用意しておいたらしい。
「ありがとうございます」
うれしさが、沈みかけた気分を帳消しにした。
成長して、マツ子は地方回りの女相撲の一座に入った。
巨漢の横綱が勝つように仕組まれた興行なので、マツ子は上位に当たるとたいてい負け役だった。
それでも若いので、商店会の旦那衆には人気があった。
ちやほやされるマツ子に対して、女の嫉妬が炸裂することも少なくなかった。
顔を張られたり、カチアゲを食ったり、本気で潰しにかかられた。
給料は僅かだし、嫌気がさしていたところを女子プロレスのプロモーターにスカートされた。
ちょうど女子プロレスの第二次隆盛期で、毛色の変わった経歴を持つ体力保持者が物色されていたのだ。
元アマチュアレスリング選手、元柔道選手、空手経験者などは正当なクチだ。
元アイドル歌手、お笑い芸人あたりは異色である。
その点、女相撲の出であるマツ子は一見正当な範疇に見えるが、売り出しはレオタードで裸足というビューティー系変則デビューだった。
パンツにマワシ着用の古臭い姿から、最先端の露出スタイルへの変身が評判になり、華麗な転身とスポーツ紙で取り上げられた。
(わたしの売りは、結局裸足かい?・・・・)
とりあえず自嘲の思いを呟いてみたが、色気の要素も押し出している感触にまんざらでもない気分を味わった。
振り返ってみると、子供のころから足指のお陰でまずまずの人生を歩いてきた。
だから、足の親指を邪険に扱ってはいけないのだ。
マツ子が小学生の時に亡くなった祖父ちゃんも、ぽってりと大きい親指を褒めてくれた。
野良仕事で凝った腰や肩を押してやると、「こんなに効く按摩はどこにもいねえ」と手放しで喜んだものだ。
中学校では、女教師の暗示にかかったかのごとくバレーボール部に入った。
高校生の時、父親が東京の建築現場の足場から落ちて即死した。
合わない地下足袋を支給され、肝心のところで微妙にバランスを崩したらしい。
そのことでモヤモヤ考えている最中に、隣町の公民館で催された女相撲興行を観に行き、即日面接を受けた。
(祖父ちゃんのために、足の指を鍛えて活躍して見せる)
イチジクのような親指は、ますます太く膨らんだ。
土俵をつかむ足指全体が、重心の低い吸いつくような相撲をマツ子に取らせるのだった。
マツ子が女相撲に入った経緯は、以上のようなものだった。
やがて女子プロレス界にスカウトされた経過は、スポーツ紙の記事で広く知られている。
稽古に稽古を重ねた相撲の努力は、プロレスのトレーニングでも無駄ではなかった。
腰の強さを生かしたブレーンバスター、足裏の衝撃がものをいう飛び蹴り、短期間のうちに必殺技を二つも完成させていた。
他にもサバ折り、首投げ、関節技など、破壊力のある決め技もマスターした。
とにかく目立つという点で、マツ子の試合は声援が煩いほどだった。
ある夜の試合で、マツ子は互角の相手とセミファイナルを戦った。
最終ラウンドの残り30秒のところで、マツ子は宙を飛んだ。
寝技から立ち上がったところを、斜め右から飛び蹴りを仕掛けたのだ。
肩から胸元を狙ったのに、逸れて顔面に蹴りが入った。
カカトが顎を軋ませ、そのあと親指が眼窩をとらえた。
他の指も一様に「く」の字に曲がり、生え際から耳のあたりまでめり込んだ。
相手はそのままロープまで飛んで行き、反動で頭からバッタリ倒れてしまった。
マツ子がフォールの体勢に持ち込んでも、抵抗する気配がなかった。
マツ子は不安を覚えた。
この地位まで彼女を駆けあがらせた足指だが、最後は不幸をもたらすのではないか。
親指の大きさを強調する「足形」の商品化を持ちかけてきた業者もいたが、もうひとつ気乗りがしなかった。
単に自分のこだわりの問題と思っていたが、親指には何か不吉な運命が秘められている気もしていた。
しばらく意識をなくしていた相手がぼんやりと目を開けた。
「いやあ、きれいやった・・・・」
大阪から参戦している実力者が、フォールされた実感もなく別の世界をさまよっていたようだ。
どこやらの花園を見てきたように、レフリーの背後に目をやっていた。
彼女の左目は大丈夫だろうか。
そして耳は?
危うく凶器と化すところだったマツ子の足指。
ことに、太くぽってりした親指への怖れが倍加した。
(わたしの足指は、どっちの味方なんだろう?)
どっちというのは、心配のもとなのか安心をもたらす授かり物なのか。
(お祖父ちゃんのためだけに使えばよかったのかも・・・・)
成功への推進力となってくれた足指は、さらに懊悩を深めてマツ子の心中に絡まって来るのかもしれなかった。
(おわり)
(2011/09/21より再掲)
導入部の描写で、いきなり情景が鮮やかに浮かび上がり、しかも無駄な文章の部分もありません。
さすがプロは、目の付け所が全然違うんだな~、と感心しました。
よく最初の2~3ページが勝負だなんて言葉を思い出しました。
いつもながら文章読みのレベルの高さに畏れ入っています。