さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

勝海舟記念館

2024年06月06日 | 関東甲信越


ここは目黒、東急池上線の乗り場です。これに乗るのは初めての気がする。
北海道から帰り、友人らと順番に酒を飲んでいます。今日会うのはこちらが職場の
人なのです。


洗足池にやってきました。日蓮上人が身延山の久遠寺から常陸に向かう途中、ここで
休んで足を洗ったことがその名前の由来になったそうです。


ここは勝海舟の住まいがあったところ。


友人と会う前に、勝海舟記念館を見物することにしました。


勝海舟は幕末から明治維新にかけて活躍した人。黒船がやってきて日本が大ピンチに
なったとき、近代国家設立のために西洋の学問を学んで海軍の整備のため先頭に立って
尽力し、幕府と新政府の間の調停にも奮闘した偉人です。


実は私は勝海舟にあまりいい印象を持っていませんでした。というのはジョン万次郎の
伝記を読んでいたからです。オランダ人に造らせた幕府の軍艦・咸臨丸で、日本で初めて
太平洋を渡ってアメリカに渡ったときのこと。それは日米修好通商条約の批准書交換の
ための遣米使節団という重要な任務を担っており、勝海舟は「軍艦操練教授方頭取出役」
という役職でした。すっきりと「艦長」じゃないの? そこには幕府の旗本である木村
喜毅が軍艦奉行としてトップに立っており、実に日本らしいですが、実務能力、身分の
高低などがからみあって船の指揮系統にトラブルがあったのです。

勝海舟は自分が船の操縦を学んだトップなのだから、自分がいわゆる「艦長」なのだと
思っていたことでしょう。長らく続いた世襲制で無能な幕府にいらだつ開明派の不満が
聞こえてきそう。しかし軍艦操練所教授方頭取で海軍技術を教えていた勝海舟にとっても
外洋に出るのは初めての経験であり、実際に船が出て外洋で波にもまれるとほとんどの
日本人は船酔いで動けなくなり、船を動かすのはサポートに入っていたアメリカ人たちに
すべて丸投げとなったのでした。

そこで動けた日本人はわずかに若い3人。そのひとりがジョン万次郎でした。万次郎は
航海術を学んだアメリカのバートレット・アカデミーを首席で卒業、その後捕鯨船に
乗って世界中を回った一流の船乗りでした。咸臨丸には下っ端の通訳として乗船して
いましたが、実力・経験では文句なく艦長になるべき人だったのです。

暴風雨の中、日本人はほとんど船内にこもりっきりだったので、少ないアメリカ人だけ
では作業が回らない。アメリカ人のトップ、ブルック船長は万次郎に「日本人も出てきて
働け」と伝えるように言います。しかし勝海舟は船長室で寝ていて怒って拒否したとか。

上の画像で、マストの上に乗って必死の作業をしている様子がありますね。万次郎が
「日本人も上がって作業を分担せよ」と言ったら、「万次郎をマストに縛りつけろ!」
なんて言い返したとか?

名ばかり威張ってて「俺が艦長」だとかにこだわる無能で動かない連中は軽蔑しますよね。
しかしこの記念館のビデオでは、勝海舟は船に乗る前から具合が悪くて実は大変だった
のだ、と語っていました。だったら威張らずに面子なんぞを捨ててきちんと働ける人を
立てればよかったんじゃ?

同乗していた福沢諭吉も、航海のあとに「これは日本人だけで成し遂げた壮挙」なんて
自画自賛したそうです。これもなあ。。。

まあ人間、そんなにすべて立派な人なんていないもの。負の部分を消去して立派な人
だったと祭り上げるのは気をつけよう、ということでしょうか。


記念館の裏には勝海舟のお墓があります。


左は奥さん。ここに眠るのは勝海舟の希望だったそうです。奥さんと並んでの埋葬も
御本人の希望でしょうか。ちなみに連れ合いと一緒に墓に入りたくない、という人を
私はたくさん知っています。二人一緒がいい、と意見が一致している人は見たこと
ありません。そんな人がいたら、生前も死後も幸せってことなんだろうなあ~^^;


洗足池を少し歩きました。いい所だねえ。


かわいいカモの赤ちゃん♪ 赤ちゃんって、毛がぽわぽわ^^


静かでいいところなので、このまわりにはあちこち豪邸がありましたぞ。


東急大井町線と目黒線が通る大岡山駅にやってきました。駅の上に巨大な病院w


駅前に大きな地下飲食店街がありました。ちと見てみよう。


うわー、昭和な酒場やバーもある。いい感じですなあ^^


駅の北側には商店街。


友人と合流して酒場に^^


おお~、魚がとっても美味しい店でした♪



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