さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

ジョン万次郎資料館

2024年11月11日 | 四国・中国地方


さて東京から訪ねるにはものすごく遠かった万次郎の資料館に入ります。歩いて
来る奴はまずいなさそうだが、広い駐車場に車も止まってないぞw


資料館はとってもきれい。ただ展示物はあまり多くないなあ。


まずは万次郎と漁師仲間が漂流してたどりついた小笠原諸島の離れ小島にいた
アホウドリのはく製。のちにその良質の羽根のために乱獲して絶滅しかかった鳥です。

岩場があるだけの小さな島なので、まず水がなく、わずかに溜まった雨水を分け合って
飲んだそうです。食料は海草をかじるとかしかない。当初たくさんいたアホウドリは、
人間を恐れなかったので手で捕まえられましたが、火をおこせないので生かじりw

それも旅立つ季節になったらみ~んな飛び立っていなくなり、まさに絶望的状況。
よくもまあ何か月も生き延びられたな!


そこでこの米国捕鯨船のジョン・ハウランド号が通りかかって九死に一生を得たの
です。よくもまあ太平洋の真ん中を漂流して島にたどりつき、さらに救出された
ものです。


こちらは万次郎が米国で船乗りの学校を卒業したあとに乗った捕鯨船フランクリン号。
当時はろうそくや機械油として利用するために米国は世界中の海でくじらを乱獲
したのです。皮下脂肪を削り取ったら、あとはみんな捨ててたんだぞwww


万次郎が書いたアルファベットの掛け軸。万次郎はもともと利発だったことと、
まだ子供だったから言葉の吸収が早かったのでしょうね。


天と地、日、月、土地、川、海、そして風 だってさ^^


万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が
派遣される際に使われた幕府の軍艦。軍艦奉行・木村摂津守喜毅と軍艦操練教授方
頭取出役の勝海舟がみっともない主導権争いをしていました。こんな船で「船長」
がいないってのは致命的でしょう。

しかしどちらも遠洋航海をしたことがない。嵐で海が荒れたとき、このメンツ争いを
していた日本人のトップ連中は全く働かないで船室で寝たきり。船酔いで「帰る!」
なんて騒いでいるとき、万次郎は不眠不休でサポートに入っていた米国人船員と
一緒に働いたそうです。

そして帰ってきたときには、その使えないお偉方さんたちは「日本人だけで太平洋を
横断した」と威張ったそうです。しかし後日、サポートの米国船船長の日記が公開
されて実態がバレたとか。「武士」とか「面子」とかいう人たちって。。。


万次郎がゴールドラッシュのカリフォルニアに行ったとき、当時の人たちはこんな
格好をしていたんだよ、という展示^^;


そのカリフォルニアの川を行き来する船はこんな蒸気船だったとか。こういう船の
模型は力作でした。ただ万次郎ゆかりの品々はそんなになかったなーw


万次郎を救ったホイットフィールド船長と晩年の万次郎。帰国してから開国期の幕府で
働いて刀を持つようになった万次郎が、大人になって船長を訪ねたときには大変な驚きと
感動だったことでしょう。


土佐でくじらを捕っていたときの様子。


土佐清水に戻るバスは2~3時間に1本。まだ少し時間があったので、資料館を出て
展望台らしきところに行ってみた。


登って見ると海が見えました。


万次郎はものすごく視力がよくて、誰にも見えないはるか水平線のかなたにでも
「くじらがいるぞ!」と見えたそうです。私の目は日々本を読んだりPC画面を見たり
しているのですっかり悪くなりました。。。


さあて帰りましょうかー。


このバス停でしばらく待つ。グーグルマップを見ると、バスがどのあたりを走って
いるか表示されます。次のバスが「3分遅れ」なんて出て、まだだいぶ向こうを
走っていてバス停3つくらい先だなあ、と思っていました。便利になったものです。

座っていて「近くになったら外に立たないとな」とふと道路を見たら、バスが
目の前を通過!!! うわっと飛び出したら過ぎて行って、その後ろから手を
振ったら、止まってくれました~~~( ;∀;)

時計を見たら、ぴったり時刻表通り。よくまあふと外を見たもんだ。よくまあバスが
止まってくれたもんだ。その次は3時間後だよ!!! グーグルマップのバスの現在地、
今後は信じないぞ。もし幸運の総量が決まっていたら、相当使ったぞ、こりゃー。



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