40年前の古い話である。朝日新聞のワシントン特派員だった原康さんが「宮沢喜一さんが自分の記事を読んでくれていると思いながらいつも原稿を書いている。」と、ワシントン駐在員時代に聞いたが、いまも良く記憶している。
絵でも書でも文でもその点は同じかもしれない。一人でもいい。自分をじっと見つめていてくれる人がいると頑張れることが人生においてもよくあるのではなかろうか。日記のように自分のために書くものでも誰かに読んでもらいたいという思いがないか、疑わしい。
「学校で教えてくれない経済学」と「Kenさんのスケッチ&コメント」を始めたのは2004年10月だった。お世話になっている鍼灸のS先生から、ブログを立ち上げるが、医者の話だけでは殺風景だから投稿してほしいと申し出があって快諾した。5年以上続いている。
S先生に送ったあと数人の友達に転送を始めた。最近は転送先の友達が「転送」して、随分「愛読者」が増えているという話をよく聞く。朝一番でバタバタ仕上げるためと言うのは自己弁護だがミスタイプも多い。今朝いただいたクレームは、副大臣兼財務相の菅さんを管さんと書いている。これから書かれる時はよろしくと書いてあった。汗顔の至りである。
昨年、2004年から「転送」メールをご愛読いただいていた方から、「経済学」は継続して欲しいが「スケッチ」は止めて欲しいといいわれ、両方とも丁重にお断りした。筆者にとってはともに魂をこめている。あれはいいがこれはいらないと言われ一気に冷めた。
両方とも送って欲しいと昨年あらためて申し出があったその方はご主人がどちらかといえば「スケッチ」、奥様は断然「経済学」だと聞いた。「経済学」を通しでファイルして読んでいるという方もおられる。「スケッチ」だけファイルの人もおられる。様々のようだ。
淀屋研究家の第一人者のお一人の佐藤正人さんがJoan Codeなるタブロイド版B5サイズ7~8ページの小冊子を毎月発行しておられる。通巻20号をひとつの区切りとしてJoanCode縮刷版(予価2,500円)を3月上旬発行予定と先日ご案内があった。
JoanCodeには「学校で教えてくれない経済学」と「Kenさんのスケッチ&コメント」が毎月各1ぺージ裏表に計2ページ掲載されている。佐藤正人さんによれば「学校で教えてくれない経済学」も、気恥かしいが英語とドイツ語に翻訳され、海外では結構評判だと聞いている。海外から逆輸入される日が近いかもしれないと密かに期待している次第である。
顔の見えない人に「転送」からさらに「転送」されている世界はありがたいようで怖い。さりながら、顔が見えないからと疎かに出来ない。情熱がなくなると文は書けない。(了)
絵でも書でも文でもその点は同じかもしれない。一人でもいい。自分をじっと見つめていてくれる人がいると頑張れることが人生においてもよくあるのではなかろうか。日記のように自分のために書くものでも誰かに読んでもらいたいという思いがないか、疑わしい。
「学校で教えてくれない経済学」と「Kenさんのスケッチ&コメント」を始めたのは2004年10月だった。お世話になっている鍼灸のS先生から、ブログを立ち上げるが、医者の話だけでは殺風景だから投稿してほしいと申し出があって快諾した。5年以上続いている。
S先生に送ったあと数人の友達に転送を始めた。最近は転送先の友達が「転送」して、随分「愛読者」が増えているという話をよく聞く。朝一番でバタバタ仕上げるためと言うのは自己弁護だがミスタイプも多い。今朝いただいたクレームは、副大臣兼財務相の菅さんを管さんと書いている。これから書かれる時はよろしくと書いてあった。汗顔の至りである。
昨年、2004年から「転送」メールをご愛読いただいていた方から、「経済学」は継続して欲しいが「スケッチ」は止めて欲しいといいわれ、両方とも丁重にお断りした。筆者にとってはともに魂をこめている。あれはいいがこれはいらないと言われ一気に冷めた。
両方とも送って欲しいと昨年あらためて申し出があったその方はご主人がどちらかといえば「スケッチ」、奥様は断然「経済学」だと聞いた。「経済学」を通しでファイルして読んでいるという方もおられる。「スケッチ」だけファイルの人もおられる。様々のようだ。
淀屋研究家の第一人者のお一人の佐藤正人さんがJoan Codeなるタブロイド版B5サイズ7~8ページの小冊子を毎月発行しておられる。通巻20号をひとつの区切りとしてJoanCode縮刷版(予価2,500円)を3月上旬発行予定と先日ご案内があった。
JoanCodeには「学校で教えてくれない経済学」と「Kenさんのスケッチ&コメント」が毎月各1ぺージ裏表に計2ページ掲載されている。佐藤正人さんによれば「学校で教えてくれない経済学」も、気恥かしいが英語とドイツ語に翻訳され、海外では結構評判だと聞いている。海外から逆輸入される日が近いかもしれないと密かに期待している次第である。
顔の見えない人に「転送」からさらに「転送」されている世界はありがたいようで怖い。さりながら、顔が見えないからと疎かに出来ない。情熱がなくなると文は書けない。(了)