恩愛の道ならでは、かかる者の心に慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべてほだし多かる人の、万にへつらひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは僻事なり。その人の心になりて思へば、誠に、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人をいましめ、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。
独身者が増えた理由についてはいろいろ思うところがあり、――ストレス耐性がなくなったのだとか、親が愛し合ってなかったからだとか、コミュニケーション能力が衰えたからだとか、金がないんだとか、性欲を発散する場所が増えたんだとか、そもそも一緒に暮らすに値する相手なんか日本にいるのか、そもそも自分自身が駄目すぎるし、とかいろいろあるのであろうが、――兼好法師のいうところからかんがえてみると、親になると、上のように盗みまでは行かないにしても、善悪の彼岸みたいなところにたつ必要が出てきて生き方が難しくなるということが、とくにちょっと勉強したようなタイプにおおいかもしれないのは、実感されるところなのだ。子供がトラブルに巻き込まれた場合、責任が親一人だけにのし掛かり、社会的なバックアップやなにやらが存在していない。「なべてほだし多かる人の、万にへつらひ」という状態は、まだある種の相互扶助が存在していることを示している。ちょっと頭が回る人間なら、親子の絆みたいな観念だけで事態がのりきれるわけがないことは分かっている。社会から自分を守るためにまず結婚は怖ろしくてできないみたいな事はありうる。教育に携わる人はだいたい分かっていると思うが、教育を十全に機能させるためには、処罰の機能が社会を成り立たせているような社会ではなく、野放図な人間(こどもね)が社会の中であるていど自由を許され、親や教師の裁量が広く設定されている方がよい。人間の多様性?の広さは、我々の想定を絶対に常に越えているからである。人間が育つということは、そういうことを認めるところからしか成り立たない。いまの大学生が子供みたいな感じなのは、教育よりも安全や安心、いってみればある種の、広い意味での安寧=正義みたいなものが優先されている結果なのである。兼好法師がいうように、独身者はそういう正義をつい振り回してしまうが間違っている。ただし、兼好法師の言い方だと、独身者は心が分からないみたいにきこえる。そうではなく、世の中の不正義はたいがい親子関係やなにやらの関係からくるものであって、正義がないところからくるのではない、と言う方がよいのではなかろうか。兼好法師の言い方だと、ますます正義の士を頑なにするだけである。この程度がわからないのが、兼好法師のルサンチマンに満ちたところであろう。
というか、親の情愛以前に、何もかもが苦手な人が多いわけで、どうなっちゃったんだろうね。。。
「私が、もし、宰相となつたならば、ですね、その責任の重大を思ひ、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲ふと共に、服も靴もぬがずに、そのままベツドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立つて、立つたまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかへて役所へ行くといふ工合の生活をするに違ひない!」と情熱をこめて語つたのであるが、クレマンソオは一言も答へず、ただ、なんだか全く呆れはてたやうな軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであつたといふ。
――太宰治「津軽」
これがアイロニーであった時代はまだましだった。