万の咎あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少なからんにはしかじ。男女・老少、皆さる人こそよけれども、ことに、若くかたちよき人の、ことうるはしきは、忘れがたく、思ひつかるるものなり。万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たるけしきして、人をないがしろにするにあり。
これは社交の問題ではない。確かに美しい若者達がこうであったら最高だが、大概の中年がそうでないように若者もそうではない。失敗は大概達人じみた振る舞いのときに起こる。泥臭い訥々としたもののやり方の方が人の役に立っている。確かに最後の文の忠告は、明らかに若くない人間に対して向いている。最近は、わかりやすさとか鋭さみたいなものを人間に要求しているうちに、人はこういう失敗に導かれている。
もっとも、こういう人間の文化的洗練を要求する意見は、文化の生成には不向きである。例えば、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」が書かれるためには、そこに出てくる浦川君とおなじく豆腐屋の坊主がでてくる「ああ玉杯に花うけて」なんかを併せて読むべきなのだ。コペル君が成立するためには、浦川君、いや佐藤紅緑の主人公の立身出世物語が存在していなければならない。単に、転向への批判なのではなく、せめて立身出世の換骨奪胎を吉野の物語に読まなければ、それは単にエリートの卵の自己満足である、吉田兼好の忠告もやっぱりコペル君のすすめである。吉野の本への批判でもある、中田考の「みんな違ってみんなダメ」の方が浦川君もコペル君も否定する勇気がある。しかしこれこそが、国家ではなく文化を肯定する。
むかし、大学人に攻撃を加えた蓑田胸喜なんかは、「文化は「耕された自然」であり、歴史は「積み重ねられた文化」である」 (『昭和研究会の言語魔術』)なんて言っていたわけだが、それ自体そこそこの認識であるような感じがするが、彼がダメなのは、否定の対象に対して「カメレオンは如何に変色してもカメレオンである。」(「美濃部博士の自決を要請す」)とか言ってしまうことである。カメレオンも積み重ねられた文化の一部であることが感情的な彼の頭には思い当たらない。要するに、彼も、文化をコペル君に、浦川君にカメレオンを見るが如きパターン認識をしているに過ぎないのではないだろうか。